神は何故こんな事を?と言う問いには。
カトリックですが、神父さんに相談しても一向に解決しないので、おすがり致します。6年前、ヒルティの幸福論を読んで心酔し、書物や人との出会いは導きで、人は導きに従って生きれば安泰安全だと言う記述を信じました。自分のそれまでの人生も神を信ずるこの瞬間の為に用意されたもの、と言う記述にも。
当時出会った女性が、神から結婚相手として遣わされた人だと信じて結婚しました。でも彼女は私のタイプの方では無く、、直ぐに苦しくなり、狂気に走りそうな感じになったので、自分と彼女の為に、断腸の思いで離婚を決意しました。彼女は号泣、私の胸は張り裂けそうでした。それから6年余りが経ちますが、彼女は大丈夫だったろうか、本当に酷い事をしたと自分を責めています。辛いです。導き?に反する事をした罰かなと思ったりもします。神を信じられなくなって辛いです。
医師はヒルティは神では無いよ、と言うのですが、彼の著書に、繰り返し神を信じよ、神を信ずる事が全て、みたいに書いてある中に、導き、と言う言葉も書かれていたので、それも神の教えだと言う気持ちが抜けません。どうしたら良いのでしょうか、、洗脳された様な感じもします。ひどい事件を引き起こした害書でした。ゲーテが賢者と愚者には害がない、中途半端に賢い者が最も危険である、と書いていましたが、その通りだと思っています
、、神に自分が逆らった様で辛いです。難しい質問かもですが、解決へと向かいたいです。どうしたら良いでしょうか?何卒宜しくお願い申し上げます。6年間、、キツいです。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
聖書は信じるに値しないフィクション
仏教的には、神様への執着、信仰も悩み苦しみの原因(煩悩)なのです。
いっそのこと、聖書はフィクションだと思ってみてはどうでしょうか。
あくまで神話。
神話の中にも役立つ教訓はありますが、歴史的事実ではないのです。
私達が創り出した概念・観念には、ゆるぎない実体はありません。
神様もまた無我であり空である、概念上の幻です。
だから、神様や聖書は執着に値しないものなのです。
心は瞬間瞬間に浮かんでは消えていきますよね。
映画に喩えるなら、心というスクリーンに概念や思考の映像が映し出されますが、映像が過ぎ去ればスクリーンは真っ白な布に戻る。
神様や聖書という概念の映画も、心のスクリーンに瞬間ごとに浮かんでは消えていく夢・幻にすぎない。
離婚の過去もまた、心に浮かんでは消えていく記憶データの映画にすぎない。
だから「心は無常。執着に値しない。」と思ってみましょう。
追記
あなたのように執着(煩悩)を手放せない場合にも、悩み苦しみストレスを軽減する方法はあります。
それは意識を何かに集中させる時間を意図的に作ることで、日常の思考(悩みの種になる雑念)を一旦停止させるのです。
たとえばキリスト教にも瞑想がありますし、祈りや賛美歌などに心を集中させるのも良いでしょう。
また、趣味やスポーツでも良い。
思考の堂々巡り、妄想雑念をブツ切りにする方法として、「意識を何かに集中させる時間」を生活に取り入れてはどうでしょうか。
質問者からのお礼
先生
ご回答ありがとうございます。
でも聖書などがフィクションと言う考えは私には無理みたいです。ブッダがフィクションと言うのと同じ様に。すみません。
先生
ありがとうございます。
何かに集中している間は確かに他のことを考える時間が減りますね。やってみます。ありがとうございます。