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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

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有り難し有り難し 16

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。
私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。
(ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します)
私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。
従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。
それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。

ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。
その際、講師の先生曰く
〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。
 そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。
〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。
私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。

今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか?
よろしくご指導下さい。
★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

2023年6月18日 19:51

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

疑いながらも念仏すれば往生できます

難しく考える必要はないと思います。
徒然草という書物によると、法然さんは「疑いながらも念仏すれば往生できる」と言われたそうです。
(徒然草は、浄土宗の「法然上人御法語」には引用されていませんが。)
煩悩まみれの凡夫である私達には、疑いも生じて当然ですよね。
阿弥陀仏はそんなあなたを極楽浄土に迎えてくださる。
仮にそれが嘘だったとしても、デメリットはない。
万が一本当に極楽があったら念仏で往生できるのだからラッキーです。
たった1回の念仏でも往生は決定していると思いつつ、日々の念仏を続けましょう。
徳本上人という江戸時代の僧侶は、
「口先で 南無阿弥陀仏といえばよい 心なくして申せるものか」
と言われたそうです。
疑いながらでも、口先に南無阿弥陀仏が出るのは、信心がある証拠。
また、法然上人は、「念仏できるように生きなさい」と言われました。
南無阿弥陀仏が口から出るなら、あなたの人生は合格人生です。
あなたが他の団体のセミナー等に行ったとしても、今、あなたが南無阿弥陀仏を口先から出力できるなら問題なしなのです。
なお、七七日等の法要が供養のためだという考えには、私も賛同いたします。
ただし、生前に全く仏教や浄土教を知らずに亡くなった人に対しては、中陰の期間内に南無阿弥陀仏を知ってもらいたいという思いもあります。
また、「生きとし生けるものがみんなもれなく極楽浄土に往生できたら良いのになぁ」
という仏教の慈悲に共感するだけでも功徳(心に善い癖が積もる)になるでしょう。

2023年6月19日 4:56
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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安心なさって下さいね

拝読させて頂きました。
どうかご安心なさって下さいね。
ただひたすら「どうか阿弥陀様、私を極楽にお導き下さい、往生させて下さい」と心からお願いなさり「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」とおとなえ下さいね。

あなたは必ず天寿を全うなさる時阿弥陀様が観音様勢至様と共にお救いなさって下さいます。先に往かれた親しい方々やご先祖様があなたをあたたかくお迎えなさって下さいます。そして極楽にて再会し喜び合うことができるのです。

ですからその様に伺ったことは受け取る必要はありません。一切お気になさらないで下さい。

因みに最近、親鸞聖人を仰ぐ新興宗教団体の方々が熱心に布教なさっておられます。ネット上でもかなり出てきておられます。その団体の教えは法然上人の教えからは全くかけ離れた教えです。法然上人御遺訓「一枚起請文」の最後の文面に出てくる「邪義」つまりあやまった教えです。

どうか安心なさって下さいね。

あなたが日々心からお念仏おとなえなさり健やかに毎日を生き抜かれていきます様に、あなたが天寿を全うなさる時必ず阿弥陀様がお導きなさって下さり極楽浄土に往生なさって下さいます様心を込めてお祈りさせて頂きます。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ

万が一あなたが強引に勧誘を受けるようなことがあれば速やかに菩提寺様や浄土宗宗務庁や総本山知恩院にご連絡下さいね。適切にご対応させて頂きます。

2023年6月19日 16:44
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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

有難うございます。
心の中がスッキリ致しました。
これからも、ご本尊様を信じ、心よりお念仏を唱えたいと思います。
お忙しい中にもかかわらず、朝早くにお返事を頂いている事。
感謝しかありません。    合掌

一向寺ご住職様有難うございます。
私が今まで信じて疑わずにお念仏を唱えていた事が間違っていなかった事に、すごく気持ちが救われました。
父も祖父も私の歳では既に亡くなっていますので、お迎えがすごく身近に感ぜられます。
何故かすごく気持ちが落ち着きました。
心を込めてお念仏を唱え、ご本尊様に身を任せます。
本当に有難う御座いました。   合掌

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

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迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 18
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禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

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