聖光上人の念仏名義集について
以前にも質問をさせていただいた件についてです。
以前の質問はこちらです。
https://hasunoha.jp/questions/52980
この問題について自分なりに考え続けてきたのですが、もしかするとここで言う「世の中の人」とは、念仏者ではない人々という意味なのではないかという可能性が閃きました。
そう思う根拠は、法然上人が入滅の時に勧められた臨終行儀を「普通の人はそういうこともするけど、私はやらなくていいんだ」と断ったことです。これは念仏者なら死の直前になってわざわざ臨終行儀をやらなくていいという意味でしょう。
法然上人が言う「普通の人」と同じ意味で聖光上人は「世の中の人」という言葉を使っているのではないか? そうだとしたらこの言葉もやっと納得がいくのです。
僕は「念仏名義集」の前後の文を読むことができません。ぜひお坊様方の解釈をお聞きしたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
浄土宗全書データベース
http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0380A07&okikae=%E4%B8%96%20%E4%BA%BA%20%E8%87%A8%E7%B5%82%E8%A1%8C%E5%84%80
私もちゃんと読めていないですが、参考までに。
J1590 念仏名義集 弁長 より
追記
「世の中の人」というのを念仏者以外の人と読むのは、苦しい気がします。
二祖弁長も親鸞聖人も法然上人と地理的に離れてしまったわけで、法然上人の晩年までの教えが細かいところまで伝わっていなかった可能性があります。
それは仕方のないことで、それでも現在まで法然浄土教がつながっているのは二祖三祖のおかげです。
現在の浄土宗では、念仏者は臨終に阿弥陀仏の来迎により正念を得る、という考え方が一般的だと思います。
臨終が大事であるのはそのとおりであり、平生の念仏も臨終の一念のつもりで称(とな)えます。
質問者からのお礼
願誉浄史様
ありがとうございます。初めて前後の文を読みました。古文の成績が悪かった僕には読解が難しいのですが、結局のところ僕の思っているとおりに解釈していいのか悪いのかどちらなんでしょう?