母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。
お坊様に質問があります。 精神的・身体的に辛い時に南無観音菩薩と心の中で唱えても良いでしょうか? 時々、内科に通院しています。
3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。
浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。 そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。
以前、死と地獄が怖いって事を質問させて頂きました。 私は悪い事をたくさんしてきました。 もちろん反省はしています。後悔もしています。でも、悪い事をたくさんしたので地獄に行くのではと怖いです。 その回答として念仏を唱えると良いと言われました。 それから忘れる時もありますが念仏を唱える事をしています。 ただ疑問に思った事があります。 もちろん反省の気持ちを込めて念仏を唱えてはいます。 もう二度としないという誓いと申し訳ないという反省の気持ちを込めてはいます。 でも、地獄に行きたくないのも本音です。 地獄に行きたくないというやましい気持ちがある中で、反省や誓いを込めて念仏を唱えることは偽善になりますか?
3年前に母を、2か月前には父がそれぞれ癌で逝去しました。 既に納骨も終わらせ実家にある墓で眠っています。 私は既婚で都内におりますが小さな仏壇を買って分骨した骨壺をお供えし、日々手を合わせてはおりますが、何か他にできることがあるのではないか?と思い、とある佛具屋で腕数珠を買って常に持ち歩く事にしています。 でもどうせなら家にある実家から分骨した両親の骨壺もあり写真もあるのでそれらを持ち込んで、その腕数珠に両親の魂、というか念仏というか、うまく書けませんが、普段持ち歩くその腕数珠に「念」を入れていただきたく質問した次第です。 もし可能ならどこのお寺(できれば都内)へでも参りますし御代もお支払いいたします。
以前にも質問をさせていただいた件についてです。 以前の質問はこちらです。 https://hasunoha.jp/questions/52980 この問題について自分なりに考え続けてきたのですが、もしかするとここで言う「世の中の人」とは、念仏者ではない人々という意味なのではないかという可能性が閃きました。 そう思う根拠は、法然上人が入滅の時に勧められた臨終行儀を「普通の人はそういうこともするけど、私はやらなくていいんだ」と断ったことです。これは念仏者なら死の直前になってわざわざ臨終行儀をやらなくていいという意味でしょう。 法然上人が言う「普通の人」と同じ意味で聖光上人は「世の中の人」という言葉を使っているのではないか? そうだとしたらこの言葉もやっと納得がいくのです。 僕は「念仏名義集」の前後の文を読むことができません。ぜひお坊様方の解釈をお聞きしたいです。
以前にも臨終の相と来迎に関しての弁長上人の言葉が納得できなくて質問させていただきました。 それ以外にも例えば弁長上人は聖浄兼学しなきゃ念仏のありがたみはわからないと言っていますが、これは法然上人が否定した「学問をして念のこころを悟りて申す念仏」ではないでしょうか。 どうも僕の目には弁長上人は法然上人の教えを歪めまくっているような気がするのですが、浄土宗のお坊さんはこの矛盾を心の中でどう消化しているのでしょうか?
浄土真宗大谷派です。 私は、小学生の時ふざけて、お仏壇の前で南妙法蓮華経と何回かとなえてしまいました。 今となっては反省していますが、こんな私でも南無阿弥陀仏をとなえたら極楽浄土に生まれ変わることができるのでしょうか? また、浄土真宗の念仏は信じてとなえることが重要だと聞いたことがあります。 実際、どのようにとなえればいいのでしょうか? 極楽浄土に生まれ変わる人は少ないとある記事で見ました。 まだ学生ですが、極楽浄土にいけるか不安で、毎日そのことばかり考えてしまい、勉強に集中できないし、毎日が楽しくないです。
日頃から念仏(南無阿弥陀仏)を唱えています。しかし、ずっと声に出していても息が足りなくなって疲れたり、また声に出さなくても、勉強をしているときなどは心のなかで唱え続けることもなかなか出来なかったりで、法然上人の言う行住坐臥の念仏にはなかなか達しません。 一念で往生が决定するのは存じていますが私のように自力の念が絶えない者は常に念仏とともに有りたいと思ってしまいます。 農作業などだったら文字通り常に念仏をすることができたのでしょうが、現代における行住坐臥の念仏とはどんなものであるべき、あるいはあり得るでしょうか。
こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。
南無阿弥陀仏と唱えるときには目は、開けるものですか閉じるものですか、それとも半眼でやるものですか?
こんにちわ いつもお世話になっています。 最近仏様にお祈りして頼っております。念仏を唱えると気持ちが落ち着き支えられています。 苦しい時の神頼み的で申し訳ない気もしますが… でも、何故か?唱えているとお線香の香りがして来て近くにいてくれていると感じます。 そのせいか、気持ちが変わってきて焦りではなく早く仕事に行きたいと思わせて頂くようになりました。 前はそう思っても怖い不安が先にたちなかなか面接行っても不採用にならないかなと思っていた自分がいました。 先日面接に行ってきてまだ、採用にはなっていませんが、手応えがありました。 今は仕事に行けたら嬉しいなと思えます。 体力的に自信はありませんが、当たって砕けろ的な考えです。 自分がどこまでできるか? ダメなら辞めてもいいって考えて気楽にチャレンジしてみようかなんて! 明日の事は誰にもわからないし わからないから希望ももてるし! 明日失敗するってわかっていてもそれをこなさなければならないならば、人間って生きていけない生き物ですよね? 何が起こるかわからないから期待や希望が持てる物だと感じました。例え失敗に終わってもそれはそれでチャレンジした自分がいるわけだから満足できるのかなと。 明日採用の合否がわかります。 祈っていて下さい。
お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。
仏様を供養する・・というのは、具体的にどうすることなのでしょうか? 亡くなられた方やご先祖様を供養するときと同じですか? また、「南無阿弥陀仏」という念仏(で合っていますか?)は、阿弥陀様だけじゃなくてお地蔵様や弥勒様にも唱えることができるのでしょうか? もし、それぞれに唱える念仏がありましたらお教え頂けないでしょうか。 よろしくお願い致します。
地獄に堕ちないためには念仏を唱えたらいいと沢山聞いてきましたが、念仏の効果が発揮されない場合はあるんでしょうか? 地獄堕ちないために念仏を唱えたら極楽に行けることをいいことに悪いことをしながら念仏を唱えるという念仏を悪用する人が出ると思います。 効果が発揮されないことは本当にあるのでしょうか?
いつもお世話になっております。 まず、質問に先立ちまして御礼とお詫びを申し上げます。 この件に大変尽力してくださった、先生方。ありがとうございます。 そして、大変申し訳ございませんでした。 お念仏は続けていますが、あれから菩提寺を含め、浄土系の寺院には お参りが途絶えている状況です。 私自身、自分の信じていた宗の精舎がすさんでいくのを見るのが とてもつらかったのです。私では、止めようがありません。 詳細を説明すると、 ・お坊さん(布教師)の言うことがちょっとおかしい →他宗の行をけなしたり、念仏以外の行を積むと地獄へ行くなどと平然と 言い放つ、他の仏様をけなす。 「なむあみだぶつ以外は邪教!!」「本山が喧嘩しあってる」 「平等とは何だ」など、不安を煽るようなことを平気で言う。 結果、信徒の9割がその影響を受けて変な方に考えが行ってしまった。 とにかく、私はつらかったです。悲しかった。顔で笑っていても、 腹の底で悲しむ私の姿を、お母さんー阿弥陀様に見せたくない、 そう思って、門から出ました。 本当の念仏とは何?この数年間私は考えました。恋しい「親様」のために。 「苦行に費やす時間を、目の前の苦しむ人たちのために。 来たるべきその後の時は、仏様が確実に手を引いて導いてくれる」 他の神仏の悪口なんか言っちゃいないし、好き勝手どころか、むしろ、 「良心」を前提で動く私たちの背中を優しく見守ってくれる。 「ドジ踏んだって怒らないから安心しな」と。 本当の念仏行って、なんなんでしょうか?
はじめまして。こんばんは。 私は失声症の時があったり、肺に持病があったりで、口で南無阿弥陀仏と称えることが苦しいことがあります。 こういうとき、心の中で南無阿弥陀仏と称えているのですが、法然上人や親鸞聖人が大事にされた「称名」念仏ではないので、何か違うと思ってしまいます。 念仏が好きなので、たくさん念仏をしたいのですが、身体的に念仏ができなくてつらいです。 ①心の中で念仏するのは、法然上人や親鸞聖人はどう仰っているのでしょうか? ②心の中で念仏するのは、浄土真宗的にどのような意味合いがあるんでしょうか(浄土真宗の念仏は信後の御恩報謝だとされていますが、心の中でもいいのでしょうか) ③口に出す念仏より心で思う念仏は劣っているのでしょうか
浄土真宗の念仏は「いつでもどこでも何度でも」ということですが、それが逆にいつどこで何回すればいいのか分からず、困ってしまいます 自分は肺が弱く、毎日そう何回も長く念仏することができないので、歩き始めたとき、トイレの時、本が一区切りついたとき、などに2,3回南無阿弥陀仏と称えていますが、こんな感じでいいんでしょうか 何も制限がないということで、逆に不安になってしまいます 思いついたときに、2,3回念仏するだけで、信心を得ることができるでしょうか 信心を得たあとも、そんな感じでいいのでしょうか 信心を得ると、有難すぎて自然とお念仏が出てくると言いますが、自分の場合肺が悪いので、出てきすぎるのも体に負担がかかるので困ります笑 有難くても念仏を我慢しなければならないのでしょうか? 根底には念仏の回数が人よりも少ない自分は救われないかもしれないという思いがある気もします
肺に持病があり念仏が難しいとお坊さんに相談したところ、なんまんだぶではなくて「ナーナーナー」でもいいと教えてもらいました 他にも肺に負担がかからないような念仏のやり方工夫があれば教えてください