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念仏について聞きたいです

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有り難し有り難し 15

以前、死と地獄が怖いって事を質問させて頂きました。
私は悪い事をたくさんしてきました。
もちろん反省はしています。後悔もしています。でも、悪い事をたくさんしたので地獄に行くのではと怖いです。
その回答として念仏を唱えると良いと言われました。
それから忘れる時もありますが念仏を唱える事をしています。
ただ疑問に思った事があります。
もちろん反省の気持ちを込めて念仏を唱えてはいます。
もう二度としないという誓いと申し訳ないという反省の気持ちを込めてはいます。
でも、地獄に行きたくないのも本音です。
地獄に行きたくないというやましい気持ちがある中で、反省や誓いを込めて念仏を唱えることは偽善になりますか?

2023年3月12日 19:56

この問答を娑婆にも伝える
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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そもそも、お念仏とは

ご相談読ませていただきました。
私は浄土真宗の僧侶です。回答は浄土真宗の教義としてお答え致しますので他のお坊さんと必ずしも同じものにはならない事をご了承の上にお読み下さい。

結論から申し上げますと、あなたは地獄に堕ちることはございません。

地獄、餓鬼、畜生を三悪道と言います。これは六道の中の最悪の三つの世界です。
残りの三つは、天、人、修羅です。全部合わせて六道と言います。

実はこれ、全て人の心の中で作る世界です。人は誰でも生まれ、老いて、病になり、最後は死にます。これは人間が避けて通れない道です。
避けて通れないならばせめて幸せに過ごしたいと思うのが人情ですよね。
どんなお金持ちでも人は歳を取り、不治の病になる事もあります。

そのような中でより良く生きたいと思うのが人間です。
しかし、悪い事をしたり人の道を踏み外していれば良い人生は送れないと考えるのが人間です。しかし、誰が地獄に行ったと証明出来る人がいるのでしょうか?

先にあげた六道を説明するならば、実は六道は全てこの現世(娑婆世界)の人間の心の移り変わりなのです。
天道と言うのは、誰でも嬉しい事があって浮かれてしまう事がありますよね、有頂天の状態。これを天道に居ると言います。
人間道は、人間らしい穏やな気持ちで過ごしている時。修羅は戦いを意味します、つまり人と争っている状態。畜生は動物です、動物には言葉が有りません、つまり意思疎通が出来ない状態、人の話が耳に入らない事ってありますよね。そう言う状態が畜生道に居ると言います。餓鬼は飢えた鬼です、つまり欲しくて欲しくて欲望が収まらない状態が餓鬼道です。地獄は、苦しみが次から次に湧いてきて常に心が苦しみから逃れられない状態です。

すなわち、地獄を含め全ての感情は私たちの心が決めているのです。

ですから、亡くなってから地獄に堕ちる人など居ないのです。殺人を犯しても地獄には行きません。
何故なら、あなたが信じるか信じないから別として、浄土真宗では阿弥陀如来と言う仏様が念仏する全ての人々を救えないのならば自分は如来にはならない(悟りを開かない)と言う誓いを立てた上で、既に阿弥陀如来がいらっしゃるのだから誓いは成就していると考えるからです。それが、お念仏の功徳です。

2023年3月12日 22:11
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おきもち

仏教の目的は、抜苦与楽と成仏です。 生きている人の苦しみをどうしたら癒せ...
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念仏できていればOK

難しく考える必要はありません。
念仏できていればOKです。
法然上人は、心を家にたとえて、念仏を心の家の主人としなさいと説かれました。
一方、煩悩による妄想雑念は心にやって来るお客さんです。
地獄を怖がる等のやましい気持ちも心の来客。
来客は必ず過ぎ去り、心は南無阿弥陀仏の主人に戻る。
安心してください。
煩悩や妄想雑念があるならあるままで、そのままのあなたを、阿弥陀仏は極楽浄土に迎えてくださるのです。

2023年3月12日 23:15
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

コメントありがとうございます。
気持ちも楽になりました!
また、新たな気持ちでお念仏を唱えて行きたいと思います。

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

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迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 18
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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

有り難し有り難し 16
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禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

有り難し有り難し 25
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ