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法然と弁長の矛盾

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以前にも臨終の相と来迎に関しての弁長上人の言葉が納得できなくて質問させていただきました。
それ以外にも例えば弁長上人は聖浄兼学しなきゃ念仏のありがたみはわからないと言っていますが、これは法然上人が否定した「学問をして念のこころを悟りて申す念仏」ではないでしょうか。

どうも僕の目には弁長上人は法然上人の教えを歪めまくっているような気がするのですが、浄土宗のお坊さんはこの矛盾を心の中でどう消化しているのでしょうか?

2021年7月11日 20:00

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうでしょうね

一枚起請文には「たとひ一代の法をよくよく学すとも一文不智の愚鈍の身となして」とあります。
法然上人は学問すること自体を否定はしていないと思います。
また、法然上人は愛弟子の証空上人をわざわざ天台止観の先生に預けて学ばせたとも聞いたことがあります。
一人前の僧侶として弟子を育てるにあたっては、聖道門の知識も役立つと判断されたのかもしれません。
浄土宗の教義を深く理解するためには経論釈を読み解く必要があり、実は浄土宗は学問仏教なのです。
念仏往生のためには学問は不要でも、教えを伝える能化(僧侶)には学問が必要です。
特に、浄土宗開宗後間もないあの時代には、浄土宗教義の骨格部分でさえ正しく理解できている僧侶は少なかったと想像できます。
そんな中、骨格部分を正しく理解している弁長上人が法然門下の中で重要な存在だったのは間違いないないでしょうね。
追記
往生する人は臨終の刹那に阿弥陀仏の来迎によって正念を得るわけですから、弁長さんの説も間違いではありません。ただ、本当の臨終の瞬間は外見では判断できないです。
で、後世の私達が理解している部分も、当時の教義としてはまだ確立されていない部分(骨格ではなかった)かもしれません。
今のように情報共有ツールがなかった時代ですから。
追記
弁長さんの認識は常識的な考えです。
当時は、法然さんの教義を細部まで研究できる時代ではなかったのでしょう。(印刷機もないし)
追記
往生を確信していれば臨終にあたふたしないだろうと考えるのは、常識的な理屈だと思います。
しかし実際にはぎりぎりまであたふたしますが。
で、弁長さんら先人が専修念仏という骨格を伝承してくださったおかげで、現代の私達が改めて詳しく宗義を研究できるわけで、弁長さんと法然さんの矛盾は「あの時代にはまぁ仕方ない」と思っています。
追記
矛盾があってもなくても念仏すれば往生できますから、細かいことは気にしなくてよいのでは。

2021年7月11日 20:51
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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私自信弁長上人の言葉についてよく学んでいないのでベストな回答ができなくて申し訳ありません。
なのでご質問の内容だけから思ったことのみ回答させていただきます。
「聖浄兼学しなきゃ念仏のありがたみはわからない」
これはその通りだろうと思います。
修行僧が聖道門で悟りを目指して長年日々努力しておられても悟りに至るのはわずかなお方だけと聞きます。ということは挫折された方も諦めた方もいたことでしょう。
そのような挫折された方が浄土門に入り念仏をお称えするだけで誰でも極楽浄土に往生し悟りに至ることができると心から信じた時、そのありがたみの感覚は他の人よりも大きな感動があるような気がします。
ただ、もちろんそのような人一倍大きなありがたみなど感じなくとも私たちは私たちなりに十分にありがたく感じていますから、特にその上人の言葉を気に留めなくてもいいと思いますよ。
南無阿弥陀仏

2021年7月12日 15:15
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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

>願誉浄史様
回答ありがとうございます。
ですが、その「骨格部分を正しく理解」が弁長上人にできているのかという点から僕は不審なのです。
例えば以前にここに書いた質問ですが、弁長上人は「世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり」と書いていますが、こんなことは法然上人は言っていないし、むしろ逆に「死に際が悪くとも平生の念仏で必ず往生できる」と言っておられます。
弁長上人の念仏は臨終行儀を重視する天台色の強い、恵信僧都源信流の念仏であって法然上人が教えた善導流の念仏ではないんじゃないか?と思うわけです。

>願誉浄史様
重ねてありがとうございます。
傍からはわからないぐらいのほんの一瞬の正念というなら弁長さんの説も理解できなくはないんですが、そうだとすると「世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり」の「知るなり」の主語は死ぬ本人ではなくそばで見ている人になると思うんですが、そうするとほんの一瞬ではなく傍から見てわかるぐらいのまとまった時間の正念になると弁長さんは言っていると解釈するのが自然ではないでしょうか?

申し訳ありません、議論をふっかけている訳ではなく純粋に疑問なだけですので、お気を悪くしないでくださいね。

>願誉浄史様
それは当時の、源信流の臨終行儀を重んじる念仏の考え方から見れば常識的、という意味ですか?
印刷機もあって細部まで法然上人の教えを研究できる今、現代の宗教法人浄土宗・及びその所属僧侶の方々はこの弁長上人の解釈をどう受け止め消化していますか?

>三宅聖章様
回答ありがとうございます。
聖道門で挫折しないと念仏の本当のありがたみが身に沁みないというのは一般論としては一理ある気もしますが、何と言いますか、よりによって難しい修行や知識を必要としないはずの専修念仏の宗旨の法語としてそれ言っちゃうかぁ!?って気持ちなんですよ(このニュアンスわかっていただけるでしょうか?)
聖道門に挫折という経験を経由しなくたって、日々の生活に追われて仏道修行などと縁がなく来世は地獄行きとあきらめていた名もなき下層階級の人々には念仏のありがたさはこの上なく身に沁みたでしょうし、むしろそういう人たちこそ法然上人の正客ではなかったか……と思うのです。その意味で三宅様がくださった最後の一段落はホッとします。

>願誉浄史様
では、法然上人と弁長上人との間に矛盾があることはしかたないとして、一念仏者としての僕はどうしたらいいでしょう? 弁長上人の気に入らない部分は無視しても良いですか? それでも浄土宗ですと名乗っていいですか?

>願誉浄史様
やっぱり結局はそういうところに落ち着きますね。いろいろ質問攻めにしてすみません。お付き合いありがとうございました。

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