仏壇での勤行について(曹洞宗)
いつもお世話になっております。
YouTubeで拝見した曹洞宗寺院内での読経と家庭でのやり方に差異を感じたので質問いたします。
在家の勤行では開経偈~から始まるやり方を推奨されてますが、寺院では直接般若心経や妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈から始まってるパターンをお見かけします。
開経偈等はお唱えしなくても問題なしと言う認識でいいのでしょうか?
また在家勤行の流れを調べたところ本尊、先祖回向、普回向でそれぞれ唱えるお経もまちまちですし、普回向に先祖回向も含まれる考えもあるようで、お寺ごとの裁量にまかされている部分が大きいのでしょうか。
よろしくお願いいたします。
他人の栄光に嫉妬する。他人の行動に怒りを覚える。自分の理想と現実のギャップに悩む。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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おおよその基準は決められています
曹洞宗の場合、おおよそどのような場合に、どのようなお経を、どのような作法で読むかは「行持規範」という基準があります。
しかし、実際に読むお経や細かい進退の作法は、それぞれのお寺や地域の歴史的背景によって違いがでる場合があります。このような特色を「山風」(さんぷう)と呼んでいます。
開経偈を読まれるお寺もあります。多くの場合、音読ですが、Youtubeで訓読でお唱えされているお寺さんを拝見したこともあります。それぞれ、山風として尊重されるというのが、曹洞宗の基本的な態度です。
また、一般の方がお家の仏壇の前でお経を読まれる場合は、それぞれのお家の事情で適宜の方法で読まれてかまいません。
曹洞宗は法華部・般若部・華厳部を中心とする大乗経典と、それに関連する頌偈・陀羅尼・祖語などを読誦依用の仏典としていますので、それ以外のもの(たとえば阿含部経典)は、通常の法要や日常の読経で読まれることはありません。
指さす先、導き先、導かれる「べき」先がどうであるべきか。
まず、開経偈も含めてお経の真意や言わんとすることをよーく親しむことでその問題はちゃんと解決されるでしょう。
無上甚深微妙の法は、
百千万劫にも遭い遇うこと難し。
我今見聞し受持する事を得たり。
願わくは如来の真実の義を解せん、と。
無上にして甚だ深い微妙なる法とは、どこの誰の何のことですか?
これから読むお経のことだけでしょうか。
あるいは、そのお経に書いてあることの内容とは、誰の、いつの、どこの、何のことを、これこそ「無上の法」だと言っているのでしょうか。お経の文字のことではない。
遭遇しがたき、遭い遇うことの難しい法とは、だれのいつのどこのどのようなことか、一体何のことを言っているのか。(求道心 発菩提心)
多くの僧侶や求道者が見落としてしまう処ですよ。
その99%の人々が見落としてしまっている「法」というものを、単にこれから、はい今からこのお経を読みますので、と別のところに向かって立ててお経というものを読むレッスンのような勤行にしてしまっているようではダメだと指導者から叱られ、諭されたことがあります。お釈迦様が説かれた法という事を明らかにする上で出家も在家も関係ありません。
多くの人が「法」というと、他方に法とかお経みたいなものを立てて、思い描いて、たった今、そこで触れていることに目が向かなくなってしまう。
お経を開くということ、本当にお経を読む、ということとは、文字を意味も分からず音にして読んでおるようなうちではだめだぞという事でした。もちろん、初心、初級の内は私もそうでしたので、それでいいのです。
我今まさに、見聞し受持する事を得たり、と。
文字文言としてのお経を読むという事でもよいでしょう。
ですが、やがてはそこからも超えて、そのお経の文字文言が指さすところの、月を指さす指を見ていたり、月を見るのに指を見る人はいませんが、お経となると人はなぜか月を見ないで指(文字)を見るクセがありますから、こうしなければならないという事は、絶対的なルール化する必要はありません。月を見んとするに毎回手ほどきを受けて、あちらにございますよと指を差して教えて頂くようでなくても大丈夫でしょう。お経を読むという上において、本当にお経を「読める」「ただ、只管に」読めるということも大事でしょう。
如是経とは、現物、実物のこと。
お経は読むお経、聴くお経、行ずるお経もあるもんで。
難波の葦は伊勢の浜荻
1・寺院での法要については、宗門が規定する「法式・ほっしき」という”行事作法を体系的に仕組み化したもの”を基本軸とします。そこには在家勤行にあるようなお唱え的なものはほとんど入らず、供養一連の進行が細部にわたり規範の中で綿密に決められた”動き”を強制されます。
この基になったのはおそらく当時の中国の作法です。この国において詳細な設定が施されたものが、ほとんどそのままのかたちで日本の僧堂や寺院において、今でも専ら公式行事にて使われています。我々曹洞宗の僧侶にとっては、謂わば行事の「グランドルール」です。
2・かたや一般在家による勤行というものは、寺院でやっていることに準じてしまっては余りにも堅苦しくてそぐわないのと、そもそも日本国内あちこちで古くから「お念仏」が為されていた背景もあり、日本人の習俗慣習に沿って後から意図的に適応させたプログラムだということです。
開経偈だけに限った話ではないですが、行事の目的というか意識を向ける先みたいなものが、「読経やお唱えを皆ですること」という”全員参加型供養”になっているところが特徴だと思います。
どちらが良い悪いというわけでもなく、歴史的背景から見て、どちらもあってこその「宗教行事」だということになるでしょう。
仰る通り地方寺院が主催する行事はその寺院の裁量に委ねられるのが昔からの習わしです。これもまた、日本ならではの宗教観が成せる独自性と柔軟性でしょう。合掌。
質問者からのお礼
百目鬼洋一様
ご回答ありがとうございます。
「行持規範」という基準に沿っていながらも、細かな進退の作法の違いは寺ごとの「山風」によるものなのですね。
詳しく教えていただきありがとうございます。
また、開経偈を唱えているお寺もあると教えていただきありがとうございます。
自分はその動画に拝見したことがなかったので、正直驚きました。
自宅では適宜で読んでも構わないとおっしゃっていただき、気持ちが楽になりました。
ありがとうございます。
TAIKEN様
ご回答ありがとうございます。
お寺では「法式」という中国由来の「グランドルール」にのっとり作法が受け継がれているのですね。
それに家庭ではその作法を日本人の習俗慣習にそって後から意図的に適応させた「プログラム」とのこと。お寺と家庭での唱え方に違いがでる理由がわかりました。
”全員参加型供養”たしかに何人集まっても同じ供養ができるのもわかる気がします。
「独自性」と「柔軟性」、たしかに動画で拝見するお寺の唱え方違いも、家庭での唱え方の違いも上記があればこそだと思いますし、歴史の中で神仏習合を行う日本人の宗教観にあてはまりますね。
教えていただきありがとうございます。
丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。
丹下様のご回答でハッといたしました。
唱えるお経や偈文の構成や違いばかりに意識し、お経本来の真意(法)について考えておりませんでした。月を指さしているにも関わらず指を見る。まさに自分のことそのものです。
気づかせていただきありがとうございます。



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