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極楽浄土に生まれ変わりたい

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有り難し有り難し 35

浄土真宗大谷派です。
私は、小学生の時ふざけて、お仏壇の前で南妙法蓮華経と何回かとなえてしまいました。
今となっては反省していますが、こんな私でも南無阿弥陀仏をとなえたら極楽浄土に生まれ変わることができるのでしょうか?
また、浄土真宗の念仏は信じてとなえることが重要だと聞いたことがあります。
実際、どのようにとなえればいいのでしょうか?
極楽浄土に生まれ変わる人は少ないとある記事で見ました。
まだ学生ですが、極楽浄土にいけるか不安で、毎日そのことばかり考えてしまい、勉強に集中できないし、毎日が楽しくないです。

2021年5月22日 20:32

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大丈夫です。聞こえてくる念仏が大事、あなたの心ではない。

浄土真宗で言う信というのは、例えば「私は神様を信じるから良い事が起こる」のように、外側に仏を立ててそれを信じるというのとは違うのですね。真宗では信心は大信と言われます。これは仏様から頂く信心で、日常の信とは全く違います。信じられたとか信じられないとかは私たちの「思い」に過ぎません。信じられないという事をくぐりぬけてくる教えなのです。真宗の信心は、私達の心の状況ではなくて、私が私がというエゴ、愚かさをどうしても離れることができないようなこの私そのものに、ずっと遥か昔から呼びかけ続けている声を聞く、それが信心なんです。人間持ちの心ではないのです。

『無量寿経』というお経にこう説かれています。「名声十方に超えん究竟して聞ゆるところなくは、誓う正覚を成らじ」親鸞聖人は仏は「名号を称すること、十声、一声、聞く人」を救うと言っておられます。浄土真宗では念仏は私が称えた念仏というより、聞こえてくることが大事なのだと言われるのです。誰の念仏も、どんな心で申す念仏も同じだと言われるのです。この念仏は正しい、この念仏はダメだなどと言う事はないのです。なぜなら念仏は私の口から出ているけれども、それは仏様の行だからです。私達の心は常に動いていきます。本当に一瞬も悪事や間違ったことをしたり考えない人などいるでしょうか?本当に心をきれいにし悪事を一切しないということができない、そういう人間を悲しみ阿弥陀如来という仏様は、南無阿弥陀仏という念仏を聞かせることによって救うという誓願を建ててくれたのです。心が動揺してしまう者のために…念仏を賜っているのです。もし、心が動じない人、阿弥陀如来を確かに信じている人の称える念仏でしか救われないというのなら、すごく心の狭い仏様になってしまいます。私は浄土真宗の僧侶です。だけど、いまだに阿弥陀如来を信じ切っていると言えないのです。でも、そういう私を救うと説かれている。その教えでしか救われないと私は感じています。「俺は信じて称えている」という人もいます、しかし、その人は「私は信じていると自分が信じている」だけではないでしょうか?私たちの心は不確かなものです。その私たちの姿を念仏は教えてくれるのです。念仏は、道具じゃないのです。大事なのは、そんな愚かな我々の口からどうして念仏が出ているのか、その驚きです。その不思議を考えて行くこと、聞いていく事が大事なのです。

2021年5月22日 21:59
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浄土真宗本願寺派の僧侶です。 産業カウンセラーの資格を持っています。...
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極楽往生

すみっこさま

拙生なりの極楽往生に関する考えにつきましては、下記拙論をご覧頂けましたらと存じます。

極楽往生に関しての考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/fdf786b2f735761a240f23946285b2f8

その他一連の関連考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f2ac67904d60204c87a6af2ac879a06d

かなり難しいことも書いていますが、あくまでも仏教の目的は、悟り・涅槃であり、浄土往生、浄土往詣、浄土導引はあくまでもその目的へと向けた一過程となります。

なぜ浄土、あるいは天へと赴く過程を経なければならないのかは、見仏と授記という悟り・涅槃へ向けた条件を調えるためとなります。

この娑婆世界は、現在、如来が不在であるため、それを補う必要性があるということになります。そのため顕教でも密教でも見仏と授記のために、浄土・天への往生(密教の場合は灌頂)が必須になるところであります。

但し、だからと言っても仏道を進められないわけではありません。

むしろ、浄土や天よりか、この娑婆世界こそ功徳(福徳)を積むに最適な世界であり、悟りへと至るための功徳(福徳)を積まずに浄土や天へ赴くのはもったいないと言えます。

どうしても、浄土や天へと早く行きたいと焦る気持ちは分からなくはありませんが、本当に往生できるのかどうかは慎重に見極めなければならないものとなります。

善根少ない者は極楽往生できないというのは阿弥陀経にも説かれてある基本中の基本であります。

確かなる仏縁と共に帰依、信心、菩提心、そして、智慧と福徳の資糧をできるだけ積むことでこそ、浄土、天も近いものになると考える方が拙生は妥当ではないだろうかと存じます。

とにかく仏教の基本は、悪い行いをなさずに、善い行いに努め励んで、心を清らかに調えていくことであります。

厳密には、阿弥陀如来様が自分を救ってくれるということではなく、実際に心を清らかに調えていくための行い、つまり、自分の善業が、自分を救っていくものとなります。

そのための信、信心とは何か、それを考えていく必要があると拙生は存じております。

川口英俊 合掌

2021年5月23日 9:57
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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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阿弥陀さまは怒ってなんかいませんよ。

これまで
どのようなことをしていたとしても
これから
どのようなことをするとしても
阿弥陀さまがお救いくださって
必ずお浄土に往生できます。

今は信じられなくても
合掌して声に出してお念仏を称えてください。
いずれ阿弥陀さまの存在を
信じられるようになりますから。

「極楽浄土に生まれ変わる人は少ない」
という記事があったとのことですが
極楽浄土に生まれ変わりたくない人は
生まれ変わらないでしょうが
極楽浄土に生まれ変わりたい人は
一人残さず必ずお浄土に往生できます。

2021年5月23日 20:20
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おきもち

和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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質問者からのお礼

和田さん、ご回答ありがとうございました。どのような人でも南無阿弥陀仏をとなえれば極楽浄土へ導いてくださるのですね!心が軽くなりました。

川口さん、ご回答ありがとうございました。やっぱりいいことをすることは大切なのですね。これからはいい行いを心がけるようにします。

釈さん、ご回答ありがとうございました。聞こえてくるお念仏の方が大事なのですね!念仏をとなえるだけでいいのですね!

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

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迷いを抱えたまま回向をすることについて

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

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禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ