極楽浄土に生まれ変わりたい
浄土真宗大谷派です。
私は、小学生の時ふざけて、お仏壇の前で南妙法蓮華経と何回かとなえてしまいました。
今となっては反省していますが、こんな私でも南無阿弥陀仏をとなえたら極楽浄土に生まれ変わることができるのでしょうか?
また、浄土真宗の念仏は信じてとなえることが重要だと聞いたことがあります。
実際、どのようにとなえればいいのでしょうか?
極楽浄土に生まれ変わる人は少ないとある記事で見ました。
まだ学生ですが、極楽浄土にいけるか不安で、毎日そのことばかり考えてしまい、勉強に集中できないし、毎日が楽しくないです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大丈夫です。聞こえてくる念仏が大事、あなたの心ではない。
浄土真宗で言う信というのは、例えば「私は神様を信じるから良い事が起こる」のように、外側に仏を立ててそれを信じるというのとは違うのですね。真宗では信心は大信と言われます。これは仏様から頂く信心で、日常の信とは全く違います。信じられたとか信じられないとかは私たちの「思い」に過ぎません。信じられないという事をくぐりぬけてくる教えなのです。真宗の信心は、私達の心の状況ではなくて、私が私がというエゴ、愚かさをどうしても離れることができないようなこの私そのものに、ずっと遥か昔から呼びかけ続けている声を聞く、それが信心なんです。人間持ちの心ではないのです。
『無量寿経』というお経にこう説かれています。「名声十方に超えん究竟して聞ゆるところなくは、誓う正覚を成らじ」親鸞聖人は仏は「名号を称すること、十声、一声、聞く人」を救うと言っておられます。浄土真宗では念仏は私が称えた念仏というより、聞こえてくることが大事なのだと言われるのです。誰の念仏も、どんな心で申す念仏も同じだと言われるのです。この念仏は正しい、この念仏はダメだなどと言う事はないのです。なぜなら念仏は私の口から出ているけれども、それは仏様の行だからです。私達の心は常に動いていきます。本当に一瞬も悪事や間違ったことをしたり考えない人などいるでしょうか?本当に心をきれいにし悪事を一切しないということができない、そういう人間を悲しみ阿弥陀如来という仏様は、南無阿弥陀仏という念仏を聞かせることによって救うという誓願を建ててくれたのです。心が動揺してしまう者のために…念仏を賜っているのです。もし、心が動じない人、阿弥陀如来を確かに信じている人の称える念仏でしか救われないというのなら、すごく心の狭い仏様になってしまいます。私は浄土真宗の僧侶です。だけど、いまだに阿弥陀如来を信じ切っていると言えないのです。でも、そういう私を救うと説かれている。その教えでしか救われないと私は感じています。「俺は信じて称えている」という人もいます、しかし、その人は「私は信じていると自分が信じている」だけではないでしょうか?私たちの心は不確かなものです。その私たちの姿を念仏は教えてくれるのです。念仏は、道具じゃないのです。大事なのは、そんな愚かな我々の口からどうして念仏が出ているのか、その驚きです。その不思議を考えて行くこと、聞いていく事が大事なのです。
極楽往生
すみっこさま
拙生なりの極楽往生に関する考えにつきましては、下記拙論をご覧頂けましたらと存じます。
極楽往生に関しての考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/fdf786b2f735761a240f23946285b2f8
その他一連の関連考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f2ac67904d60204c87a6af2ac879a06d
かなり難しいことも書いていますが、あくまでも仏教の目的は、悟り・涅槃であり、浄土往生、浄土往詣、浄土導引はあくまでもその目的へと向けた一過程となります。
なぜ浄土、あるいは天へと赴く過程を経なければならないのかは、見仏と授記という悟り・涅槃へ向けた条件を調えるためとなります。
この娑婆世界は、現在、如来が不在であるため、それを補う必要性があるということになります。そのため顕教でも密教でも見仏と授記のために、浄土・天への往生(密教の場合は灌頂)が必須になるところであります。
但し、だからと言っても仏道を進められないわけではありません。
むしろ、浄土や天よりか、この娑婆世界こそ功徳(福徳)を積むに最適な世界であり、悟りへと至るための功徳(福徳)を積まずに浄土や天へ赴くのはもったいないと言えます。
どうしても、浄土や天へと早く行きたいと焦る気持ちは分からなくはありませんが、本当に往生できるのかどうかは慎重に見極めなければならないものとなります。
善根少ない者は極楽往生できないというのは阿弥陀経にも説かれてある基本中の基本であります。
確かなる仏縁と共に帰依、信心、菩提心、そして、智慧と福徳の資糧をできるだけ積むことでこそ、浄土、天も近いものになると考える方が拙生は妥当ではないだろうかと存じます。
とにかく仏教の基本は、悪い行いをなさずに、善い行いに努め励んで、心を清らかに調えていくことであります。
厳密には、阿弥陀如来様が自分を救ってくれるということではなく、実際に心を清らかに調えていくための行い、つまり、自分の善業が、自分を救っていくものとなります。
そのための信、信心とは何か、それを考えていく必要があると拙生は存じております。
川口英俊 合掌
阿弥陀さまは怒ってなんかいませんよ。
これまで
どのようなことをしていたとしても
これから
どのようなことをするとしても
阿弥陀さまがお救いくださって
必ずお浄土に往生できます。
今は信じられなくても
合掌して声に出してお念仏を称えてください。
いずれ阿弥陀さまの存在を
信じられるようになりますから。
「極楽浄土に生まれ変わる人は少ない」
という記事があったとのことですが
極楽浄土に生まれ変わりたくない人は
生まれ変わらないでしょうが
極楽浄土に生まれ変わりたい人は
一人残さず必ずお浄土に往生できます。
質問者からのお礼
和田さん、ご回答ありがとうございました。どのような人でも南無阿弥陀仏をとなえれば極楽浄土へ導いてくださるのですね!心が軽くなりました。
川口さん、ご回答ありがとうございました。やっぱりいいことをすることは大切なのですね。これからはいい行いを心がけるようにします。
釈さん、ご回答ありがとうございました。聞こえてくるお念仏の方が大事なのですね!念仏をとなえるだけでいいのですね!