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迷いを抱えたまま回向をすることについて

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有り難し有り難し 18

3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。
その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。
しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。
我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。
日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。
最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。
自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。
家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

2023年8月27日 22:16

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「二つの道」にわけないでください

うてなさんは、きっと仏縁の濃い方なのでしょうね。仏教を通じておおくを学び、気づき、ご自身と向き合っていかれる魂(本質的な性)なのではないでしょうか。
さて、今回のご相談のように「迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか」という発想が、そもそもあなたの誠実さ、まっすぐさを表していると、私は思いました。そもそも心のねじれた人間ならば、「迷いを抱えたまま、念仏を唱えること」になんの「問題」も感じえないはずですから。心のまっすぐな人が、たとえ迷いをもったままだったとしても、念仏でしょうと題目でしょうと、その他の真言や祈りの言葉でしょうと、日々懸命に唱えておられるのを「悪い(だめだ)」などという宗教家はいないのではないかと私は思います。(ちょっと変な言い方ですが)どうぞ、迷いながら念仏を唱えてくださいませ。せっかく自ずから授かった「念仏を唱え回向する」という尊い習慣を、わざわざ捨てることはございますまい。
付言いたしますと、「阿弥陀様におすがりする」というのと「自分の心と向き合う」というのとは根本的にケンカしないと拙僧は思います。むしろ本質的には繋がっていますし、何なら同じことかもしれませんよ。
「阿弥陀様におすがりする」のは、きっと「他力を信じる」ということなのではないでしょうか。だとすれば、他力を本当に「信じる」ためには他力を「見極める」必要があるはずで、「他力」を見極めるためには「自力」を見極めることが肝要ですから、そこにおいて「自分(の心)と向き合う」ということも繋がってくるはずなのです。自分というやつを見つめていきますと、どうもこれまで自力だと思っていたものがそうではない(そうとは言い切れない)という気がしてくるのです。自力で(自分の能力で)やることを私たちは「出来る」と言いますが、「出来る」という字はこのとおり「出て来る」と書きます。「出て来る(他力)」ということがなければ、「出来る(自力)」というはたらきもきっと起こり得ないはずでしょう。いかがでしょうか。
ですから、どうぞ、念仏を唱えるというのと、自分の心と向き合うというのとを「二つの道」にわけないでくださいませ。仏教は不二のおしえであります。もとより一つの道ですから、うてなさん本来の誠実なお人柄をいかしてそのまま“まっすぐ”進んでいっていただきたいと思います。

そわか合掌

2023年8月27日 23:37
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入山文章(Bunshō)
苦しみに負けず、安心して前を向いて力を出して頂けるよう、微力ながら誠心誠意...
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宗派が異なりますが、

自坊の宗旨の祖である、親鸞聖人について少し。聖人は一時期、関東で暮らしておられました。当時の関東はいわゆる田舎で人々は日々を懸命に生きていました。だからこそ、迷いも常にあったと思います。親鸞聖人はその方々と共に懸命に迷いながら生きていかれました。そんな迷いの中で、親鸞聖人も人々も南無阿弥陀仏を大事にされていきました。少し話がずれてしまいましたが、申し上げたいのは、聖人も関東の人々も、常に迷いの中で念仏申されて生きていかれたということです。お書きになられている「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という言葉は、『ありのままの姿で一筋に念仏しなさい』、迷っているなら迷っている自分自身として念仏しなさい。ということではないでしょうか。最後に私見でございますが、人は誰でも迷います。迷いなき心で念仏せよ。と言われたら、私も念仏できません。迷っているなら、迷っているあなたのままで行じる念仏こそ、本当の念仏ではないでしょうか。

2023年8月28日 1:16
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おきもち

大阪市西成区の金剛寺に生まれる 高校在学時から声優養成所へ 卒業後も、...
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質問者からのお礼

ご回答、誠にありがたく存じます。
自分の中で、「清らかな心で念仏を唱えなければならない」という強迫観念のようなものがあったことに気づかされました。
これからも自分なりにお念仏と向き合っていきたいと思います。

「念仏について」問答一覧

きらびやかな誕生に比べて人生がしょぼい

母が富士山に登った時にゲロッとつわりが来て僕を妊娠していることが判明。そのストーリーゆえに「おまえは富士山の神様から授かった子かもしれんな」と父に言われた事が自分の自尊心・自己肯定感の源になってきました。 富士山の神様は浅間大明神=木花咲耶姫ですが、母の実家の隣にはこの神様を祀った神社があったり、大学に進学して富士山と関係ない地方に住んだら僕の苗字がついた神社があったので参拝してみたらそこの祭神も木花咲耶姫だったりと、ただならぬ縁を感じています。 子供の頃は明らかに他の同級生に比べても知能がズバ抜けていたし、数年前にIQを測ったら132でした。 ただ、そのキラキラした誕生ストーリーの割には実際の人生がキラキラしてないのです。社長でもリーダーでもなく、しがないサラリーマン歯科医。金持ちでもないし住まいも田舎。人に慕われるような人気者でもなく、5年も婚活してやっと結婚できてもつまらない理由で離婚させられ、再婚相手が見つかったと思ったら婚約破棄。今3度目の婚活中で、もうじき40歳になります(この辺りの経緯は過去質問を参照ください)。 ここから浅間大明神の子に相応しい英雄になれるドラマが自分の人生にあるとは思えないし、あったとしてもそれに耐えうる根性が自分にあるかも怪しいです(5千万円の借金にビビって開業あきらめた弱虫ですから)。 念仏者としては神の子より凡夫の方が良いのかもしれませんが、自分の自己肯定感の源と現実との格差をどう縮めたものかと時々情けなく思います。

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南無阿弥陀仏のお念仏で極楽に往けますか?

浄土宗のお坊さんにお聞きしたいです。 私は、浄土宗の信徒です。歳は70歳を超えた現在今更ながら恥を忍んでお聞き致します。 (ご住職様は日頃、京都にお勤めでお寺にはおられませんのでこちらにお聞き致します) 私はずっと、南無阿弥陀仏と心から信じて唱えていると、ご本尊様が臨終の際に極楽浄土に導いて下さると信じていました。毎朝晩、ご燈明をつける時一生懸命にお願いをしておりました。 従って日常の行いは大切ではあるけれど、その行いによって六道輪廻のどこかに落とされる?という教えは、浄土宗には関係ないものとずっと思っておりました。 それ故、葬儀の後の七日毎の逮夜は審判ではなく供養をしていると思って勤めておりました。 ところが本日、親鸞聖人に関係のある某団体主催の勉強会に参加させて頂きました。 その際、講師の先生曰く 〇お釈迦は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるとは一切言っておられませんとか。  そんなのなら、誰もが極楽へ行けますよとか。 〇六道輪廻はあります。魂とは別に?根底に肉体という物体がありその物体が輪廻しているとか。 私の様な凡人にはよく理解出来ませんでしたが、今まで心より信じていましたご本尊さまのお導きによって極楽浄土へ行ける事を否定されている事に大きなショックを受けました。 今まで思っていた通り、心よりお念仏を唱える事でご本尊様に極楽浄土に導いて頂けると信じていてよろしいでしょうか? よろしくご指導下さい。 ★法然上人のお弟子さんの親鸞聖人に関係する会という事でしたので参加してみました。

有り難し有り難し 16
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禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

有り難し有り難し 25
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ