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迷いを抱えたまま回向をすることについて

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3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。
その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。
しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。
我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。
日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。
最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。
自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。
家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。

2023年8月27日 22:16

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「二つの道」にわけないでください

うてなさんは、きっと仏縁の濃い方なのでしょうね。仏教を通じておおくを学び、気づき、ご自身と向き合っていかれる魂(本質的な性)なのではないでしょうか。
さて、今回のご相談のように「迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか」という発想が、そもそもあなたの誠実さ、まっすぐさを表していると、私は思いました。そもそも心のねじれた人間ならば、「迷いを抱えたまま、念仏を唱えること」になんの「問題」も感じえないはずですから。心のまっすぐな人が、たとえ迷いをもったままだったとしても、念仏でしょうと題目でしょうと、その他の真言や祈りの言葉でしょうと、日々懸命に唱えておられるのを「悪い(だめだ)」などという宗教家はいないのではないかと私は思います。(ちょっと変な言い方ですが)どうぞ、迷いながら念仏を唱えてくださいませ。せっかく自ずから授かった「念仏を唱え回向する」という尊い習慣を、わざわざ捨てることはございますまい。
付言いたしますと、「阿弥陀様におすがりする」というのと「自分の心と向き合う」というのとは根本的にケンカしないと拙僧は思います。むしろ本質的には繋がっていますし、何なら同じことかもしれませんよ。
「阿弥陀様におすがりする」のは、きっと「他力を信じる」ということなのではないでしょうか。だとすれば、他力を本当に「信じる」ためには他力を「見極める」必要があるはずで、「他力」を見極めるためには「自力」を見極めることが肝要ですから、そこにおいて「自分(の心)と向き合う」ということも繋がってくるはずなのです。自分というやつを見つめていきますと、どうもこれまで自力だと思っていたものがそうではない(そうとは言い切れない)という気がしてくるのです。自力で(自分の能力で)やることを私たちは「出来る」と言いますが、「出来る」という字はこのとおり「出て来る」と書きます。「出て来る(他力)」ということがなければ、「出来る(自力)」というはたらきもきっと起こり得ないはずでしょう。いかがでしょうか。
ですから、どうぞ、念仏を唱えるというのと、自分の心と向き合うというのとを「二つの道」にわけないでくださいませ。仏教は不二のおしえであります。もとより一つの道ですから、うてなさん本来の誠実なお人柄をいかしてそのまま“まっすぐ”進んでいっていただきたいと思います。

そわか合掌

2023年8月27日 23:37
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「抜苦与楽こそ“お坊さん”の仕事」 これは拙僧のささやかな信条です。「仏道修行」という旅のなかで得られた仏法の妙味を、御縁をいただいた皆さまと分かち合い、喜び合えますことなどは、もう本当に本当に有り難く、心の底から嬉しくもなり、おのが修行の励みともなるものであります。一つ一つのよき御縁に感謝をし、命のままこの道を行こうと思っております。是非、ともに仏法を探究いたしましょう。そわか合掌 ※唐突に安居(あんご:瞑想修行・自己対話に集中する期間ほどの意)に入ってしまう時などもあり、あまり沢山の回答は出来ないかもしれません。ですが、ご回答出来る時には全身全霊を尽くし、御相談者さまのお心に、たとえわずかでも仏法の妙薬が浸透し、またその妙味を味わっていただけますよう精一杯心を砕き言葉を紡がせていただきます。 ●その他、拙僧文章(ぶんしょう)について… ・心の支えとしている仏教書は、池田魯参先生の「『摩訶史観』を読む」と「天台小止観」 ・瞑想スタジオ「そわか」主宰(現在はオンライン中心) ・瞑想の先生、人生コンサルタント ・サッカー好きな一児(中2)の父
どのようなお悩み事でも、安心して打ち明けてください。つまらぬ正論や説教臭いだけの綺麗事は申し上げません。人がどのように理屈をこねようと、すべての物事は❝あるがまま❞。 現在、八方塞がりで藁をも掴もうというご心境の方、仏法(仏教)に救いをお求めの方は、是非いつでも真剣にご相談くださいませ。その苦しみこそ、あなたを導くほとけの慈悲なのですから。 そわか再拝

宗派が異なりますが、

自坊の宗旨の祖である、親鸞聖人について少し。聖人は一時期、関東で暮らしておられました。当時の関東はいわゆる田舎で人々は日々を懸命に生きていました。だからこそ、迷いも常にあったと思います。親鸞聖人はその方々と共に懸命に迷いながら生きていかれました。そんな迷いの中で、親鸞聖人も人々も南無阿弥陀仏を大事にされていきました。少し話がずれてしまいましたが、申し上げたいのは、聖人も関東の人々も、常に迷いの中で念仏申されて生きていかれたということです。お書きになられている「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という言葉は、『ありのままの姿で一筋に念仏しなさい』、迷っているなら迷っている自分自身として念仏しなさい。ということではないでしょうか。最後に私見でございますが、人は誰でも迷います。迷いなき心で念仏せよ。と言われたら、私も念仏できません。迷っているなら、迷っているあなたのままで行じる念仏こそ、本当の念仏ではないでしょうか。

2023年8月28日 1:16
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大阪市西成区の金剛寺に生まれる 高校在学時から声優養成所へ 卒業後も、バイトしながら 声優養成所に通う。 父の再婚により、家に居づらくなった等 色々と要因が重なり、 20歳で見切りを付け就職、 大阪に1年、その後東京へ。 精神的にも経済的にも限界を迎えて 25の時に実家の寺を継ぐ準備として 宗派の専門学校に入学。 卒業後真宗大谷派僧侶となる。 父からは贅沢をしなければ 食べていけると聞いていたが、 その現在の認識、将来の見通しが あまりにも甘いことを思い知らされる。 当時全くなくなっていた提携葬儀社を 作るために葬儀社訪問をしたり、 同宗派のお寺との付き合いを広げたり、 そのような中、住職に就任。 多少マシにはなってはきたが、 飽和状態の市内では それ以上の発展は見えてこない。 そこで、10年ほど前に河内長野市に 移ってまいりました。 それから10年。恥ずかしながら  考えていたようにはいかず、 経済的にも厳しい時期もあり、 借り入れもしてしまいました。 しかしながら、最近になりやっと、 借り入れもなくなり、 私一人ではございますが、 食べていけるようになりました。

質問者からのお礼

ご回答、誠にありがたく存じます。
自分の中で、「清らかな心で念仏を唱えなければならない」という強迫観念のようなものがあったことに気づかされました。
これからも自分なりにお念仏と向き合っていきたいと思います。

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