幸せでも良いのでしょうか?
私は20才の時に人を事故で殺してしまいました。
今は旦那と子ども二人、お腹に一人、
マイホームも建設中で、
私自身の仕事、職場にも恵まれ本当に幸せです。
でも、
一人の人間の人生を奪った私が
今、こんなに恵まれ、幸せでいいのでしょうか?
時々、誰かに責められているような不安感に襲われ
怖くなります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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幸せでいいのです。
アカリ様、ご質問ありがとうございます。
20歳の時の事故のこと、今も心から離れないのですね。
罪を背負った自分が幸せでよいのだろうか?というお気持ちかと思います。
王舎城の悲劇という事件がありました。
アジャセという王子が、父王を殺し、母まで手にかけようとします。(母は周囲のいさめで、命は助かり、幽閉されます。)
アジャセは父殺しと未遂とはいえ母を殺そうとしたという二つの罪の重さから、全身にかさぶたができ、苦しみます。
そのアジャセも、救われるのですが、その救いの要因を「慚愧(仏教では「ザンギ」と読みます)だと、親鸞聖人はいわれました。
犯した罪そのものは消えないのでしょうが、大切なのは、その罪を思い、苦しみ、慚愧すること。
そのことが、人を人たらしめるのではないでしょうか。
現在のあなたの幸せは、事故の後のあなたの心の持ちようによって、あなたにもたらされたものだと思います。
幸せは充分味わってください。
その幸せは、あなたの慚愧に裏打ちされていること、このことをよく覚えておいていただきたいと思います。
懺悔文
アカリ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
詳しい事情・状況(故意または過失など)は分かりませんが、過去における事故にて人を亡くされてしまわれたとのこと・・ただ、既に謝罪や償い、罰(刑事罰、民事罰や行政罰)もお済みなのではないかとは存じます・・それでもまだ罪の意識をお持ちで自分を責めてしまわれておられるご様子・・
人間誰しも大なり小なり過ちや罪を犯してしまうものでございます。問題は、その過ちや罪とどう向き合い、そして、どう反省し、どのように行いを改めていくべきであるのかが、大切なこととなります。
仏教では「懺悔文」(さんげもん)というお経がございます。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身語(口)意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
私がその昔より諸々の悪業(悪い行いの集まり)を積み上げてきてしまったのは、全て、無始(始まりのない過去)以来の貪・瞋・癡(貪りの心・激しい怒りの心・真理を知らない愚かな心)を原因として、身・語(口)・意(身体、言葉、心のそれぞれによる行い)によって生じるところのものです。私は今まさにそれらの悪業の全てを懺悔致します。
私たちは、このお経をことある毎に唱えさせて頂き、己の悪業、煩悩、無明(根本的な無知)と向き合い、そして、しっかりと智慧(空の理解)と福徳(善徳行・慈悲行・利他行)の二資糧の集積に努めることによって、悪業、煩悩、無明の対治、排撃を目指していくこととなります。
また、既に藤堂様もおっしゃられているように、過去の過ちに関しましては、仏教では「慚愧」ということを大切に致します。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/慚愧
「慚愧」により二度と同じような過ちをしないことと共に、善徳行、報恩功徳に努めることをお勧めさせて頂いております。
アカリ様はもちろん幸せで良いのですが、併せて、亡くなられた方への御供養と共にこれまでの様々な罪業や悪業を何とか善行を進めることで、尚一層にしっかりと排撃して参りたいものでもございます。
ご安産を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。
どんな風にお礼を書いたらいいか悩んでいるうちに
遅くなってしまいました。
ありがとうございます。
ザンギ・・・私は出来ているのでしょうか?
後悔はしているし、反省ももちろんしているけど、
やってしまったことは消せないし、
殺してしまった相手に私は何をしたら誠意をつくしたことになるのでしょう?