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故人に会いたい、話したい

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有り難し有り難し 4

親しい仲だった友人弟を亡くして暫く経ちました。

以前質問をさせていただいた時からは、少しだけ気持ちが落ち着き、日常も取り戻しています。
そこで様々な疑問や思いが出てきました為、また聞いて教えていただけたらと思います。

まず、故人とはまたいつか再会出来ると言っていただけましたが、その再会とはどの様なものなのでしょうか。
魂同士で見た目は持たないのか、それとも最後に会った時の肉体の見た目(お互い20代、今の姿)なのか…

私が彼の訃報を受け、お参りに行かせていただいた時には既にお骨の状態でした。その事からか、未だに全く信じられなかったり、肉体への執着心が消えません。堪らなく会いたくなります。

また、無知なので何を言っているのかと思われるかもしれませんが、死後の動きは宗派によって異なるのでしょうか?宗派の把握はしておりませんが、私と彼の家の宗派が違う場合、いつかの再会は叶わない、という事はあるのでしょうか…?

そして、彼に聞きたい事が沢山ありますが、特に聞きたい事として、私の事をどう思ってくれていたのか、私とどうなりたかったのか。
現在恋人がいる為、あまり聞くことでは無いと思いますが…私を想ってくれている様な発言を何度か受けており、けれどハッキリした言葉ではなかった為、いつか再会した時に教えて欲しいと思っています。会話は、出来るのでしょうか。

彼に会いたくなってLINEのやり取りやSNSのアカウント、前に一緒に遊んだ時の写真や動画を見ては、彼が居ないことが理解できない気持ちと、もう会えないのか…と強烈な寂しさで苦しんでいます。

記憶力がよくなく、昔遊んだ時の記憶はおろか、数年ぶりに再開した今年の春、初めて一緒にお酒を飲んでとても楽しい時間を過ごしましたが、その記憶さえも薄れています。
彼とのわずかな思い出を忘れる事が、今は1番の恐怖で辛いことです。介護職をしているので、何もかも分からなくなる認知症には絶対になりたくない、記憶があるうちに絶対死にたいと思っています。自死は選びませんが、どうか早くに、とにかく早く人生の幕が閉じないかと願っています。若いうちに彼に会いに行きたいとも。

めちゃくちゃな文章で分かりにくく申し訳ありませんが、また回答をお願いいたします。

2023年8月25日 2:31

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私がこうしたい意識「ダロウナさん」が強いと心は通い合わない。

感応道交。
人間はまず我を捨てることからです。
あなたは今愛する人を失って哀しい状態なのですが、自分が強く出過ぎてしまっているのです。だから、相手の声が聞こえない、再開ができないのでしょう。
たとえば生きている人同士で考えてみましょう。
あなたが話を聞いてもらいたい人がいる。
でもその人はいつも自分のことで精いっぱいで聞く耳を持たない。
私は今、ある人に会いたいから、こうしたいから、こうなりたいからと耳を塞いでしまっているとしたら、生きてい人同士でも心の交流は可能ではないと思われませんか?生きている人同士で、この現実世界ですらそういうことがあるわけです。
親子関係、兄弟関係、友人関係でもそうでしょう。
およそ人はみな自分とばかり話している。
およそ人はみな自分のことばかり最優先。
およそ人は相手に良かれと思っても自分の要求を相手に押し付けてしまっている。
およそ人は自分の願う形の在り方を主張しすぎて❝正門❞を見失っている。
まず、この文章一つにいたしましても、どなたであってもわがことが優先されている方であれば、この文章は目に入らない。目に入っても読めない。日本人は文字が読めても文章が読めない人がいるという世間の言葉も要は人は自分のやりたいこと、自分の思っていることが脳内優先されてしまっていて、相手の真意をきちんと読み取ることができないのです。
同じ人間なんです。感応道交ということがある。以心伝心ということがある。
ちゃんとつたわる。ちゃんと心が通い合う。ちゃんと真意が伝わるということはあるのです。
動物を飼う人であれば言葉はいらないはずです。
人間も動物も相手がこうしたいと思う心を読めるのです。そこに言葉はなくとも。
あの人が今生きていてくれたならば…、
あの子が今そばにいてくれたなら…、
ちゃんと、耳を澄まし、心を澄ますことです。
わたくしめの理想セルフイメージを優先させてそういう形でなきゃダメダメイヤイヤという心があれば、人は生きている人とも亡き人とも心の通い合いはありません。
内なる個人さまときちんと語り合うことは生きている人と語り合うことと同じです。
生きている人と話すときも、相手に対して自分の中で相手はきっとこう思っているだろうなという「ダロウナさん」を相手にしていると相手と一緒にいても相手ではなくダロウナさんと一緒にいるだけで相手を見ていないのです。

2023年8月26日 6:37
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有り難し
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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