いつか死んだ子に会いたい
我が子を自死で亡くしました。死後、いくつも心の闇を抱えていたことを知りました。その内容は裏切りでもあり、哀しみでもありました。
以来、想像を絶する悲嘆と悲しみに苦しむ日々です。
私自身、寺に生まれ寺で育ちました。懐疑的な性格であったので、熱心な仏教徒ではありません。
我が子の死と向かい合わなくてはならなくなった今、仏教やキリスト教で何かが救われるかと言うと、やはりまだそこに至っていません。
辛くてメンタルクリニックにも行きましたが、薬が欲しかったのではなく、あの子に会いたい、この苦しい気持ちをどうすればよいのか?という問いに医師は薬を勧めるだけでした。(当然ですよね…。)
あの子に会いたい。話したい。抱きしめたい。あの子はどこにいるのか、自分が死んだら会えるのか、と日々問い続けています。
あの子が自分の周囲を彷徨っているのなら、声が聞きたいとイタコにすがろうかと思った時期もありました。霊感を説く宗教にはまってしまう人の気持ちがわかるようにもなりました。イタコや変な宗教には何もコンタクトは取っていませんが、辛い気持ちは何も癒されません。
最近、知人の医療従事者が、私に「自死した人はあの世に行けないんだよ」と言ってきたのは、さらに私を打ちのめしました。
私はいつか会いたい、その気持ちだけのためになんとか生きています。
あの世があるのか?そこで会えるのか?
誰もがわからないその問いでしょうが、
これからこの悲しみにどう気持ちをもっていけばよいのでしょうか。
愛別離苦の辛さだけでも、心が悲しみで爆発しそうです。
倶絵一処というのは、自死した子とは願ってはいけないのでしょうか。あの世があるのであれば、死に方次第でそんなに区別されるものなのでしょうか。
会いたい、会いたい。こう願う気持ちはおさまることを知りません。
体調のことがあって止められていた飲酒をするようになりました。長生きしたくないからです。それでも日々、仕事やボランティア等できることは無理してやっています。時々涙が出てきます。
自死したあの子と会いたいと、ひたすら願いながら。
けれどもだんだん疲れてきました。
自死した子と浄土で会えないならば、何に縋って生きていけばよいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
亡き子を想い手を合わせるところに、我が子は仏として戻ってくる
こんばんは。亀山純史と申します。
お子さんを自死で亡くされたとのこと、お悔やみを申し上げるとともに、悔やんでも悔やみきれないことと存じます。
家族が亡くなれば、遺族の方の多くは、故人に対して、生前もっとしてあげれたのではないか、との後悔の念にかられます。ましてや、自死された場合には、その気持ちは私などには計り知れないものでしょう。
さて、ご質問に対して私なりの答えを書かせていただきます。
「自死した人はあの世に行けない」という発言があったようですが、そのようなことは全くありません。しかし、世間ではこのような発言を耳にすることがあります。それは自死することを抑制するために生まれた発言だと思います。
自死した人も、仏様の世界にお生まれになられている、と私は思っています。私たちの心は病んでも、命そのものは病んだりしません。「命を大切にしなさい」とは言いますが、「心を大切にしなさい」とは一般には言いませんよね。それは、命は心を支える大きな働きであり、私たちの命は仏様の命の海から頂いたものだからです。「みんな仏の子」なんです。みんな仏の子であるからこそ、来世に仏様の世界にお生まれになる条件に、死に方はどう関係してくるというのでしょうか。ですから私は、「死に方で来世が決まる」とは思ってはいないのです。
さて、この私に死を通してこの世の無常を教えてくださった人々は、この私にそのような世の道理を教えてくださった仏様だと、私は思っています。そして仏様であるならば、この世での生を終えても、仏様であられるのです。
そして仏様は目には見えなくても、いつも私たちを慈悲の光で明るく照らしてくださっているのです。あなたが亡き子のことを想い手を合わせるところに、あなたの子は仏様として戻ってきてくださっています。
平安朝の女流歌人の和泉式部が、幼い我が子の死を悼んで詠んだ句を最後にご紹介します。
「夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり」
(幼くして逝ってしまった我が子は、この私にこの世の無常なることを教えるために、生まれ、そして死んでいった仏さまだったのだ。)
以上が私からの回答です。今回のご相談ですべてが解決することはないと思いますが、少しでもあなたの気持ちに寄り添うことができたならば幸いです。
必ずお会いすることできます
拝読させて頂きました。
あなたがお子さんを亡くされて深い悲しみ辛い思いをなさっておられること読ませて頂きました。あなたのその悲しみは想像を超える様な深いものでしょう。あなたのその思い全てとは申しませんけれど、あなたのその悲しみを心よりお察しします。
お子さんが心安らかになります様にと心を込めてお祈りさせて頂きます。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
お子さんは必ず仏様や神様がお導き下さり、先に往かれた親しい方々やご先祖様がお子さんをあたたかくお迎えなさって下さいます。お子さんは皆さんに再会なさり仏様や神様のもとにて一切の迷いも悩みも苦しみからも救われて心から安心なさり、何の憂いもなく清らかに円満にご成仏なさいます。そしてあなたやご縁ある皆さんをこれからも穏やかにお見守りなさって下さいます。
あなたのその悲しみは消えることはないでしょうが、どうかお子さんが心から安らかになります様に心を込めてお祈りなさって下さい。そしてあなたのお子さんへの思いを全てお子さんや仏様や神様やご先祖様にありのまま素直にお伝えなさって下さい。
お子さんや仏様や神様やご先祖様はあなたのその思いを全て優しく受けとめて下さいます、あなたに寄り添いなぐさめて下さいます。
あなたとお子さんとのご縁はこれからもずっと永遠に続いていくのです。
いつの日かわかりませんが、あなたがその天寿を全うなさる時に必ず仏様や神様があなたをお導き下さり、お子さんがご先祖様を連れて優しくお迎えなさって下さいます。そして再会を喜び合い分かち合い、仏様や神様のもとで一緒に清らかにご成仏なさっていくのです。
どうかあなた自身の心身もいたわって下さい、あなたを大切になさって下さいね。いつでもどこでもどんな状況にあってもお子さんはあなたを見守っていて下さいます。
あなたがこれからもお子さんとのご縁を大切になさり、あなたに与えられた人生を心から豊かに皆さんと一緒に分かち合いながら幸せに生き抜いていかれます様に切にお子さんに祈っています。そしてあなたが仏様や神様のもとにてお子さんに再会なさいます様に切に切に祈っています。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
宜しければまたあなたをお気持ちをお聞かせ下さい。あなたを心よりお待ちしております。
質問者からのお礼
亀山様
お忙しい中、回答をありがとうございます。昨日より、何度も何度も読み返しております。
まさかのことが我が身に起こり、これが罪なのか罰なのかと問う日々です。
亀山様の宗派では、霊感を否定しているかと存じます。私の周囲には、「実は自分は霊感がある」と言う人や、看護師をしており病院で霊を見たことがあるという人もいます。
じゃあ私の子も霊となっているのか?と
もう何が何だか、わからなくなります。
日々、家に帰れば「帰ったよ。もしかしたら私には見えないけれど、そこにいるの?」と語りかけてしまう自分がいます。
どうしてこんなふうにならなくてはならないのでしょう。私は“面倒くさい”人間になってしまいました。
こんな悲しみがなぜ私に、と思うと正直なところ南無阿弥陀仏と唱える心境にも今はなれないのです。もう何も信じられない、と言うのが本音です。
和泉式部について教えてくださり、ありがとうございます。切ない愛情が溢れていると思います。まだ私は式部のように思えないです。一生思うことがないのかもしれません。
自死した人はあの世に行けない、の言葉を口にする人に私は問いたいです。なぜそんなことを言うのか。それを証明して見せてほしい、と。
ただ私は子の死因を周囲に話していません。こんな悲しいこと、とても話せません。だから「自死すればあの世に行けない」の言葉を聞いてただ耐えるしかありません。
亀山様の言葉、一語一語に励まされます。
辛さがさらに大きくなれば、いや毎日読んで私の心の支えにしたいと思います。
本当にありがとうございます。
Kousyo Kuuyo Azuma様
お忙しい中、回答をありがとうございます。
我が子の思いもよらぬ死は、私に信ずると言うことを否定するようになりました。
もとより、信仰心の薄っぺらい私は、
あの子の死以来、心が止まり、南無阿弥陀仏と唱えることすらできなくなりました。
手を合わせることも今は何のためにするのか、と虚しく感じてしまいます。(申し訳ありません。どうしてこんなふうになってしまったのでしょう。)
疲弊しきってしまった心は、なかなか思うように前に進んでくれません。
「頑張るぞ」とか「前向きに行こう!」と思えなくなりました。どれだけ時間が必要なのかわかりませんが、Azuma様に回答していただいた南無阿弥陀仏の心境にいつか少しでも近づければと思います。
これからも子との縁は続くと書いてくださっています。今はこんな悲しい縁なら、出会わなければよかったと悲嘆に暮れるばかりです。やはり前に進めません。
けれども、優しく回答してくださったAzuma様の気持ちを無にしないためにも、気丈に生きていくしかないという心境です。
本当にありがとうございます。