諸行無常、生きている人の心のあり方
亡き母は、ある事業を運営していましたが、まだこれからという時にがんがわかり、あっという間に亡くなりました。
子供の頃から情熱的に活動していた姿を見てきたので、どんなにか残念で、悔しかったことと思います。
私はすでに他の仕事をしていたこと、また、子供個人の幸せを願ってくれましたので、事業は継がず無くなりましたが、母の情熱、精神は忘れることはできません。
それから数年経ち、その経験は、自分の新しい仕事に活かしています。
いましんどく感じているのは、その業界でいわばライバル的存在だった事業が活動をしていることです。
その関係者とは、もと協力関係にありましたが、トラブルがあり、仲違いしました。気に入らない利用者は満足に面倒をみない等、自分勝手な事が多々ありました。
不誠実さを糾弾すれば、足並みを揃えないほうが悪いと。貸したものも返してもらえないままでした。母は不毛な争いを避け、思いやりを大切に、最後までこつこつ活動を続けました。
真面目に取り組んできたほうは追いやられ、力尽きてしまい、ずるいあちらはなぜいい思いをしているんだろう。そう感じてしまいます。
今でも時々夢に出てきて、むなしく思います。
利用している方々は悪意はないのでしょうが、付き合えるということは、自分勝手な人の集まりなのかも、と感じます。
事業に関わった多くの物品、思い出の品々も、捨てられず、そのままです。利用している方々のためにお譲りして、使っていただけたらとも思いましたが、あちらにお渡しするのも考えられません。
この気持ち、思い出、思い出の品々、
受け入れ方、消化の仕方、なにか手掛かりになるお言葉をいただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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来世に持っていけるのは功徳と罪業
悔しさやモヤモヤ、お母様の生き様への誇らしさなど、複雑な思いがおありなのでしょうか。
仏教的な考え方と言いますか、気持ちの落としどころとしては、こんな考え方もできます。
輪廻転生を前提に考えると、財産は来世に持っていけない。
一方で、功徳と罪業は持っていける。
功徳とは、善いことをすればするほど心に積もる善い癖。善のカルマ。
罪業とは、悪いことをすればするほど心に積もる悪い癖。悪のカルマ。
功徳が積もると、悟りやすい性格、幸せを感じやすい性格になります。
罪業が積もると、悟りにくい性格、不幸を感じやすい性格になります。
今自分の肉体や財産は、ご先祖や家族や知人からもらった恵みが大部分。
今の自分の心は、過去の自分の功徳と罪業の報いが大部分。
財産(物質や法人や特許や著作権なんかも)は来世に持って行けないので、嫌な奴も多い世の中ですが、結局は他者に分け与えるか、ゴミとして廃棄するか、遺族に判断を委ねるくらいが関の山でしょうね。
なお、何かを他者に分け与える修行を布施(ふせ)と呼びます。
布施(他者)は、やればやるほど功徳(来世に持っていける幸せの種)になります。
まぁ、基本的に世の中は弱肉強食です。
強い奴やズルい奴や、多勢に無勢を集めた奴が得をするのは仕方ない。
ただ、弱肉強食ゲームで宝物を集めても、それらは来世に持っていけないと考えることはできますね。
質問者からのお礼
願誉浄史さま
ありがとうございます。何度も繰り返し拝読いたしました。
お金や物の豊かさは今生限りのもの、ということですね。わかっているつもりで、縛られていたのかもしれません。
物品達は、誰かに差し上げたり、感謝しながら捨てる(感捨)などして、幸せの種へつなげていきたいと思いました。
そして健康に生み育ててくれた母に感謝し、心に善いものを積もらせて、迷いなく、幸せを感じられるよう、これからを過ごしていきたいです。
ありがとうございました。