諸行無常と人間関係の捉え方回答受付中
この前、学生時代の友人と数年ぶりに再開しました。学生時代はとても仲が良く共通の趣味もあり毎日学校で楽しく話していたのですが、社会人になって再会したら相手の趣味が変わっており昔ほど盛り上がることができませんでした。
これも諸行無常なのか、、と少し寂しく思いましたが、固定された関係がないからこそ、学生時代の共通の趣味で楽しく話せた思い出が、美しく輝くということなのでしょうか。
反対に今友人とうまく行かないことがあっても、それは今だけのものでまた時間が経てば楽しめるかもしれないというふうに解釈すればいいのでしょうか。
桜や花火などなくなる刹那的なものがむしろその美しさを際立たせるように、楽しい友人関係もその時だけの瞬間的なものと捉えればより楽しむことができる。そして逆に友人関係があまりうまく行かなくても、それも今だけのもので将来はまた変わるものだからそれに固執して悩むこともないということでしょうか。諸行無常とは楽しいものはその時だけのものと割り切ることでその楽しさを増やすことができるし、悲しいことはその時だけと割り切ることでその悲しさを減らすことができるものと解釈するのでしょうか。
お坊さんからの回答 2件
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友との再会と、諸行無常のやさしさ
学生時代の友と、数年ぶりに再会したとき。
かつてあれほど盛り上がった会話が、今はどこかぎこちなく感じられた。
その寂しさは、とても自然なものです。
でも、あなたがふと思われたように、
「変わってしまったからこそ、あの時間が輝く」という見方は、まさに仏教で説く「諸行無常」のやさしさそのものです。
仏教では、すべてのものが常に変化し続けていると説かれます。
これは、単なる“はかなさ”を説いているのではありません。
むしろ、「変わるからこそ、今この瞬間がかけがえのないものになる」
そう私たちに教えてくれる教えです。
桜や花火が美しいのは、散ってしまうから。
同じように、人間関係も「ずっと同じではない」からこそ、一期一会のぬくもりが生まれます。
「今は通じないけれど、またいつか分かり合えるかもしれない」
「今は盛り上がらないけれど、あの頃があるから今の自分がいる」
そうやって“関係のかたち”を、少し柔らかく見てあげることができたら、
過去も、今も、未来も、自分にとってかけがえのない時間になります。
だから、楽しい時間は「今だけ」と思うことで、より大切に味わうことができる。
つらい時間は「ずっとは続かない」と信じることで、少しずつ癒えていく。
仏教の「無常」とは、“諦める”ための言葉ではなく、
「やわらかく受け入れる」ための知恵なのです。
かつての輝きも、いまの寂しさも、そしてまた未来への期待も、
ぜんぶがあなたの人生の「風景」です。
そのすべてに、優しいまなざしを向けながら
今日という一日を、どうか大切に歩んでみてください。
合掌
ものごとも人も常に移り変わりゆきます
拝読させて頂きました。
あなたがおっしゃる「諸行無常」のとらえ方もいいと思いますよ。ものごとも自分も他者も常に移り変わりゆくものです。そこで見たこと聞いたこと出会ったことも感じたこと恵まれたことも経験したこともそれぞれに変わっていくものでしょうからね。
過去を懐かしむこともとても大切かとは思います。そればかりにとらわれていては取り残されてしまうかもしれません、今を生きているのです。
あらゆるもの全ては移り変わりゆくものです、それにとらわれない心を持っていきたいですね。
とはいえ生きているとなかなか難しいのが実情です、様々なものごとや人にとらわれてしまうのが悩み苦しむのが人間だと思います。
とらわれることなき様にと日々精進していきたいですね。至心合掌