家族トラブルで自分の名前が嫌になった
家族で揉め事が起こった結果、自分の中で「私はこの家に生まれてくるべきではなかった」という結論に至ってしまい、そのせいで今の本名となる姓名があまりしっくり来なくなってしまいました。
家族(実家)と揉めたのはお金やら何やらでない、痴話喧嘩の延長です。ただ、どうしても飲み込めない態度や言葉があり、私としては簡単に折れるわけにはいきませんでした。
しかし彼らは、あったことをなかったことにしてみたり、なかった話を後から持ってきたりして、しまいには私が生まれたかどうかの頃の話まで持ってきて、一人故郷から離れた一番年若い私にすべてをなすりつけるような結論に持っていこうとしました。もう付き合いきれないと思い、縁を切りました。
ただそれ以来、「どこの家にでも少なからずそういう事はあるだろう」と封をしていた嫌悪感が一気に出てきて、両親どころか祖父母の代にまで否定的な感情になり、先祖をほとんど否定するようになりました。
また、私は末っ子で、7つ上の姉がいます。姉が子供の頃、すごく赤ちゃんを欲しがったので私を産んだと聞いています。
ただ、私が幼少期に病弱だったこともあり、母親は私にかかりきり。父は仕事に忙しく家庭どころではない。そのことが辛かったのか、私は姉に恨まれてしまったようで、それが今までずっと続いています。
「母はお前の言うことは聞くが、私の言う事なんか一切聞かない、ずるい」それが姉の私への言葉です。
こんな状況も、母に言わせると姉が悪いのだそうです。姉が望んだから兄弟を作ったのに勝手を言っていると。確かにそれは大人になってまで持つ感情なのかとも思いますが、親の側もここまで拗らせる前に何かできたのではないかと思うのです。
姉がいくら兄弟を欲しがろうと、姉が私の面倒を見るわけではありません。親が自分たちの家族計画の責任を取る気がないのなら、私を作るべきではなかった。こうまで恨まれるのであれば、私はこの家において生まれてくるべきではなかった。そう思うに至りました。
最終的に仕事にもトラブルが出て、うつ病を発症するにも至りました。ただ、決して生まれたこと自体を後悔はしていません。ですが、彼らと同じ姓を名乗りたくない、彼らから与えられた名前も使いたくない。であれば自分は何者なのか…これはおかしい悩みでしょうか。今後どういう心持ちで生きていけばよいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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行いを名乗る。
はじめまして。
浩文(こうぶん)と申します。
過去のご投稿も含め、読ませていただきました。
MKさんはとても冷静な方なのだと感じました。
自身の行いをいいように利用されるばかりだった経験をお持ちながら
それでもご自身の行いと考えに、誇りさえ持っていらっしゃるように見えます。
だからこそ
『決して生まれたこと自体を後悔はしていません。』
と言えるのでしょう。
私はそれが一生の宝。
いえ、一国の宝であるとさえ思います。
お釈迦さまはおっしゃいました。
生まれによって高貴な者になるのではなく
行いによって高貴な者になるのだと。
ご投稿にありますようなご家族との確執を経ますと
通常、自分自身の存在を否定してしまいがちではないでしょうか。
しかしながらMKさんは自分を否定するのではなくて
生まれ(姓)を否定する方向へ思考されているのですから。
本当に思慮深く冷静な方なのだと思いました。
まるでお釈迦さまのようですね。
こういう考え方は、自身の行いに軸のある方でないと
なかなか出来ないと思います。
名前を変えるぐらい何だと言う方もいらっしゃるでしょうけれどね。
MKさんは決して名を軽んじているわけではないから
ご相談なさったのでしょうし。
『私はこの家において生まれてくるべきではなかった。そう思うに至りました。』
”この家において”というのがとりわけ鋭いのですね。
『であれば自分は何者なのか…』
きっと、自身の行いにおいて名乗るべきなのでしょう。
許しがたいとはいえ
お生まれの否定は簡単ではありません。
恐らくMKさんご自身は
否定しているわけではなく離れて生きることをお考えかと思います。
物理的には無理でも、心理的に距離を置いて
自身の行いにおいて自身を表明していただきたいと思います。
その中で新たな縁がつながるかもしれません。
きっとそのときには、姓を手放すことができているのではないでしょうか。
そのときは、もう一つの名を持つ者として
私もMKさんを誇りに思うでしょう。
南無釈迦牟尼仏 合掌
質問者からのお礼
とても丁寧なご回答をありがとうございます。
ところどころ身に余るお言葉もいただき、恐縮です。
でも私は、家族や仕事のトラブルのときも、本当に取り返しのつかないことをしてしまう映像が何度も頭をよぎりましたが、それを現実にする度胸がなかっただけ。
うつ病になってからも死が頭をよぎりましたが、結局何もできなくて「生きるのも死ぬのも辛い」と呟いていただけでした(今はほぼ大丈夫です)。
「この家において」も、まったくの社会の邪魔者とまでは思わずに済んだから、まだ全部否定していいかはわからないと思えただけです。まったく迷惑をかけずに生きてきたとは言いませんが、恐らくひどい悪事を働いてはいないはずでしたから。
「後悔していない」というのも大層なことではないです。
結局実家では嫌な思いは子供の頃からしてきましたが、虐待とまで言われる扱いを受けたわけでもなく、衣食住も進路も困ることがなかった。
友人には比較的恵まれたし、仕事もうつになる手前まで直属の上司には恵まれ一応それなりの成果を残せた。
運がちょっとずつ向いた結果、「悪いことばかりじゃなかったな」「何かしらこの世に残すものはできただろう(エンジニアだったので、何とは言えませんが『モノ』とかに思想とかが残せた)」と思える気持ちが少しあるから言えたことなのかな、程度の話と思っています。
本当に、字数制限で最初にこういったことが書けなかっただけでした。
でも背景はともかく、これからもできる限り誠実に正直に生きていきたいなと思うことができそうです。
「自身の行いにおいて名乗るべき」この言葉、深く心に刻みます。家族とは今後出来る限り距離を置いて細く繋がるくらいがいいなと考えていましたが、ふわふわと、モヤっとした「自分は何者なんだろう」という考えが起きたらこの言葉を思い出すようにします。
改めまして、ご助言感謝いたします。