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言い返すべきか受け流すべきか

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有り難し有り難し 14

自分はおとなしくしている方なので、後輩から「それってばかにしてない?」って言動を取られることがあります。

すごく頭にくることもあります。その場で適切に言い返せればいいのですが、突然のことで固まってしまうこともあります。周りに人もいるし変に怒ると社会人としての自分の評価にも関わると考えて躊躇して何も言わなかったり。

家に帰ったらとても頭にきてナメるなよとムカムカしたりします。その後輩には今後は冷たい態度をとろうとか、ミスしたらめちゃくちゃ責めてやろうとか復讐心に燃えてしまいます。

一方で同じように後輩から「それってばかにしてない?」って言動をとられている人を見るのですが、結構ハイハイって受け流している、いわゆる大人な対応をしている人も見ます。

今後の方針としては自分は神経症気質なので、気にしすぎで相手をやっつけようとしているので大人な対応をして受け流すようにするべきなのか、馬鹿にされないように色々な鎧を身につけるべきなのかアドバイスをくださるとありがたいです。

自分としてはスルーをしたいとは思うのですが、なかなかそれができずにムカムカしています。

2023年12月12日 23:12

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

観自在力を養う 物事の本質を見極め、自在にみる力。

韓信の股くぐり
すぐれた人間は大志を優先して、仮に相手がこばかにしてこようが動物的なマウント行為と変わらぬことだと心得ているので相手にもしない、負けてもやれる。
韓信は本気出したら天下を取るほどの才智があるので相手をフルぼっこにできるのに、それもやらない器。
あなたもそういう器だと知ることです。
自分はそんな程度ではないと思うことなかれ。
そういう要らぬ謙遜は人間を小さくする。
ただし勝ち負けや優劣にこだわるような小物になればあなたもそれ以上は成長しない。
それは格下の土俵と心得て、そういう魑魅魍魎の世界で勝ち負けを争うような土俵には立たないことを心得るべきです。
本当の大人物はそういう程度に振り回されない。
世間のおおよそ多くの人間がその心理にコンプレックス・劣等感・ルサンチマン・恐怖心があることをしっている。あるからこそ、相手を小ばかにしてくるのだ、と。
私もある坊さんが修行道場時代に後輩をいじめているのをけしからんと思い注意をしたことがあり、逆恨みを買ってか、その後、色々こちらに負けじとマウントを取ってこようと必死な人がいます。みんなそれぞれ立派なのですよ。人の嫌がることをしなければ。笑
男・オスの世界とは優位性の戦いのようなものでしょう。平成令和の現代人はそういう古い文化から解脱しなければいけません。
或いはこう考える。
若い世代の方は思ったことをつぶやいてしまうのだ、と。それが結果的にため口に聞こえるだけです。痛々しいですが。そういう人も坊さんの世界にも増えています。主観でつぶやいているだけなのです。失礼とか、そういう感性が無いので起こる必要すらありません。
よって、あの子がああいうことを言ってくるのはこういう理由からなのだ、と冷静に見抜くこと、あるいはきちんとした納得のいく理由をもって対応することです。

ちなみに禅をまなべば言葉の表現による意味付けは無限に可変が可能です。みるところの立ち位置、受け取るところの立ち位置が変わります。
言葉で表現しつつも相手の本質がよくわかるので言葉の表面的な意味に振り回されなくなります。
そういうことを言ってくるのも相手がこうしたい、こういうことを思っているという事が読み取れるので、相手のレベルにちゃんと合わせてあげられるようになれるのです。あなたが目指すべきところは心の強さ、柔軟性、無我、優劣勝ち負けを超えることです。

2023年12月13日 0:23
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

御礼が遅くなり申し訳ありません。
よく読みかえさせてもらって読むたびに気持ちが楽になります。
大変勉強になりました。
どうもありがとうございます。

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