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不倫に見る仏教の教義の矛盾について

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私は先日タイに旅行に行き、時獄寺と呼ばれる仏堂を拝観しました。タイの仏教観では、「浮気をした者は地獄で無頭人になる」とされているようです。
(URL参照)
https://tabizine.jp/2018/12/06/222695/
さて、私は浮気や不倫を完全に悪だとは考えていません。

もちろん相手が避妊を怠って他の男と子供を作ったとか、それが原因で別れ話を切り出すとか、金銭的・法的なトラブルを起こした等となれば話は別ですが、そのようにせず、単に恋愛やセックスを楽しむ範囲においては、当人の好きにしたら良いと考えます。
自分が浮気や不倫をされても、そのように考えます。

どうやら仏教では、このような考え方は邪淫とされ、徳の低い行為と見做されるようです。

しかし、これはよくよく考えるとおかしな話です。
仏教では基本理念として諸行無常が説かれています。
万物は常に移ろいゆく、これは人間如きが抱く恋愛感情だって同じはずです。
この「人間の気持ちの諸行無常性」を肯定するのであれば、「浮気や不倫というのはごく自然と起こり得るもの」と考え、いざ自分が浮気や不倫をされた時でもそれを受容する事こそが、徳の高い考え方であると思います。
私の考え方は間違っていますか?

2024年7月25日 23:24

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの考え方も諸行無常。

 あなたは現在、浮気や不倫について、部分的に肯定する、という立場なのですね。
 でも私は違います。数多くのそういった事例や相談を見て、また自身が「純粋に恋愛を楽しむなら構わないや」とは思わないからです。
 私は坊さんですが、もし妻がそういうことをしたら、やはり受容できないでしょう。自身を振り返り、反省はするでしょうけれど。つまり私は、あなたの言うところの徳の高さはありませんし、そうありたいとも思いません。恋の楽しさなんて、もう要らないです。
 私の場合は加齢や今までの経験や環境によってそうなっているのでしょうが、あなたも同じように、世界との縁によってそう思っている。今あなたが「これは教義の矛盾である」と考えていること自体を否定しようとは思いませんが、その価値観自体にあなたが固執しないことを願います。
 ただの頭でっかちにならないように、そしていろんな経験を素直な学びに繋げて行ってほしいです。
 また何かお困りごとや相談があれば、ぜひお越しくださいね。

2024年7月26日 0:20
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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

世の中全体や各人の心が貧しくならないために維持されるべきもの

(´ー`)
そこでいっている不倫とか、仏教でいう不邪淫ということの趣旨・趣意はお分かりになるはずです。仏教でなくても、一般論、モラルとして考えてみてくださいよ。誰が不倫をされて嬉しい人がありましょうか。分かれるにしても尊厳を大切にして、お別れしないと人間はどっちにも尊厳やプライドがありますから、どのみち浮気や不倫は相手を損なう行為なのでアウトなのです。
自分の家族や身内で浮気や不倫をしていたら他の家族はうれしいでしょうか?
知人でそういう家族がありますが、家庭は生き地獄ですよ。
かぁちゃんが夫に隠れて不倫。夫婦仲最悪。子供たちは親に対して信頼がない。
どんな理由であれば不倫は誰かを傷つけるから、不倫や浮気ではないカタチで男女の関係を維持すべきなのは結婚してなくても同じです。(´-`*)
仏教よりも先に実際の人間生活があるからです。
安定な生活をいいだろう、大丈夫だろうと、道外れなことをした結果、その時、その場は自分だけ良くてものちのち必ず心理的にも、人間関係においても災いが生ずるものです。それが人類が学んできたこと。それがために殺人事件にすら発展するので不倫や不道徳、人の道に外れることはしない、するな、するべきじゃないということでしょうね。
死後の世界の地獄以前に現世、この世で生き地獄💀になるし、結婚していなくて不貞を繰り返せば、自己愛中心な人の行いによって人が互いに影響されあって、どちらも愛からほど遠いヤサグレタさん、やさぐれ太くんになってしまうということです。
特例や特殊なケースはあるでしょうから、そういう場合は個別に周りの方々に迷惑をかけないよう配慮を徹底すれば、良い話です。
議論のための議論というものは揚げ足取りみたいなもので仏教のもともとの言わんとする人の心が豊かになるという主意から外れるので注意を要します。
自分が主張したいことを主張したいとか、自分が好き勝手したいという理由のために、人間をより豊かな人間性に導こうとする仏の立派な教えや導きや人道的にこうあるべきだよ、こうあるほうがいいよという「戒」を否定するようなことをすると、それをさらに都合よく解釈する人たちも生まれて、さらに世の中が乱れることにも繋がりかねませんのであなたもご注意ください。仏教の十重禁戒の第十は不謗三宝戒といいます。人の心を豊かに導く教えを損なうようなことはすべきではないものです。

2024年7月27日 10:57
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

修行(訓練)メニュー

戒は悟りやすい性格になるための修行・訓練メニューです。
悟りを目指したいなら効果的なトレーニングなのです。
また、お釈迦様は、「みんな自分が可愛いからこそ、他人を傷つけてはいけない」と言われました。
配偶者も不倫相手も傷つかないような不倫方法(全員が不倫の事実を容認)が可能なら、不倫しても良いでしょうね。
また、たとえば一夫多婦制の国などでお互い納得の上なら文化的にも法的にも不倫とは言えないでしょうね。
一方で、おっしゃるように人の心は無常であり、また、配偶者であっても自分の所有物ではありません。
なので、不倫された場合は執着を手放して怒らない(事務的な慰謝料請求等は良いと思う)ことも仏教的な対応です。
自分と他人のためには不倫しない方が良いが、自分が不倫された場合は許すのが修行になります。

2024年7月26日 8:30
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

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