自己犠牲と自殺について
自己を犠牲にして他者を助けることは、見過ごして生きるより尊いのでしょうか。残された家族や知人が苦しまずに生きていくことはできるのでしょうか。沿岸部や山奥で生活することは、自殺行為と同じでしょうか。救助する人だって大事な命と家族がいるのに、救助に来させるのは「仕事だから」を越えて残酷さを感じるのは私だけでしょうか。他者のために命をかけられる人に、どうしたらなれるでしょうか。生まれ変わらないと無理でしょうか。不摂生な生活することは自殺と同じくらい悪いでしょうか。しにたいと本気で思っていれば、そういう命をかけて人を助けられる職業にでもつけばいいし外国支援にでも飛び込めるのにそうしてない自分は結局死を避けたいんじゃないかって思うようになりました。本気で人を思いやり命を省みないようになればそういう仕事にもつけるんでしょうか。職業も決まっている今さら言っても遅いですが来世はそんな人生に憧れます。
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程度による
こんにちは。まるで堰を切ったかのような問い。色んなことがグルグルと頭を巡っているのかな、と感じます。
まずは落ち着きましょう。あなたは今、落ち着いていないようです。
さて様々な例を挙げておいでですが、どうも「自分の命を他人のために使うとは、どういうこと?」というのが中心なのか、と推測します。
さて、その場合「自分の命」をどう見るか?ということを避けては考えられません。何より私たちは、親から命を受け継いでいるのですからね。
では、その「受け継いだ命」ですが、すでにそれは「他人の命を使って育ててもらった」命です。つまり(大概は)ご両親の。私たちは寿命を減らしながら生きていますが、つまり「時間を使う」ことは既に命懸けである、ということです。あなたは、レスキュー隊のような「自分が死ぬかも知れない環境に趣き、他者の命を救う」ことを考えておられますが、子育てだって命懸け、新入社員教育だって命がけ、何なら相談活動も命懸けです、程度の差こそあれ。コンビニのバイトだって、自分の時間を使っているのですから、同じ視点で見ると、やっぱり命がけです。
さて、それらが「犠牲」なのか?というのは、その時その人が何に命を使っているかによるでしょう。同じ人だって、タイミングによってそれぞれの重みは異なります。レスキュー隊であっても、出場する日としない日があっても不思議じゃありません。
自分の命を、時間を他人のために使うのと、自分の命を省みないことは異なります。それは程度の違い。そして程度というのは、最終的に質の違いとなります。むかしの奴隷はご主人様に生死を握られていましたが、私たちは100パーセント誰かに、ということはありません。
さて、あなたに何があって、このような問いに至ったのでしょう。よかったら、その具体的なエピソードや問題を、次回は書いてみませんか?
質問者からのお礼
すぐにご返信いただけるとは思いませんでしたので、大変うれしいです。この場を借りてハスノハ制度自体にもお礼申し上げます。拙い問いに答えてくださりありがとうございます。気持ちが少し落ち着きました