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魂を消滅させる方法を教えてください回答受付中

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ネットで検索した限りでは、魂を消滅するには悪いことをたくさんしないといけないそうです。
地球上には戦争をしている人もたくさんいるけど消滅していないので、少しくらいの悪事では魂は消滅しないでしょう。
悪いことをせずに解脱ではなく完全消滅する方法を教えてください。
私の魂を作った仏であれば必ずできるはずです。
来世以降で地獄に落ちたり虫に生まれ変わったりする可能性が少しでもあるなら今生で終わりにしたいと思います。

2024年9月6日 8:26

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生きることを味わうことで消滅します。

お釈迦様は、固定的な自己や魂を信じることが、苦しみ(苦)の原因であると説きました。
この「我」という執着が、自己中心的な欲望や苦しみを生み出す原因となってしまいます。

貴方が、自分の魂を消滅させたいと思えば思うほど、その苦しみが増幅されて自分自身をさらに追い込んでしまう形になってしまします。

だとするなら、今この瞬間を味わい、そして楽しむことで「私の魂」が消滅していくはずです。

今生きること味わった見てください。

2024年9月6日 11:13
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有り難し
おきもち

入滅・涅槃、念仏で往生極楽

仏教ではそもそも魂というものを実体視しないのですが、仏教では輪廻転生の繰り返しから解脱することを目指します。
生き物であることからの卒業ですね。
それを涅槃(ねはん)に入ると言ったり入滅すると言ったりします。
真理を悟って煩悩を完全に滅ぼしたら涅槃に入れると説かれます。
悟るためには、戒律を守り、精神集中の瞑想や真理を悟るための観察瞑想を実践する必要があります。
ただ、浄土宗等では、この世で悟るのが難しいのでまずは悟り易い環境である極楽浄土に往生することを目指します。
経典によれば、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えて往生極楽を願う者は阿弥陀仏の力(他力)で往生させてもらえると説きます。
なので、まずは念仏を称えていれば、来世では入滅できると思ってご安心ください。
なむあみだぶなむあみだぶ
なむあみだぶなむあみだぶ
ただし、来世で悟ったあともすぐに入滅しないで、仏様となって衆生救済活動をするぞ誓う思想もあります。
追記
 意識を完全生滅する方法は、修行を完全し、悟ってから死ぬことです。
 悟らずに死んだ場合は輪廻転生してしまうので、新しい生命の新しい意識につながってしまうと考えます。
 ただし、厳密には意識は瞬間ごとに生じて滅していますから、記憶を相続しているだけで、1秒前の自分と今の自分は本当は別人です。
追記
 文字数制限があるので全てにお答えできませんが、2500年前のブッダや、ブッダの弟子で阿羅漢というレベルの悟りに達した方々は、死後に涅槃に入られたと考えられます。
 たとえ神々であっても、涅槃に入った者達をみつけることはできないと仏教では言われます。
 たなたを生み出したのは神様とかではなく、一瞬前のあなた(の業)や周囲の因縁により生み出されたのだと思います。
 そして、死にたくない滅びたくないという渇愛が残っていると、死んでも転生してしまう(後継者を作ってしまう)と考えます。
 本気で滅んでもいいと思えたら悟りですが、心の奥底でちょっとでも生に未練があれば涅槃に入れないと仏教では考えます。
 

2024年9月6日 12:45
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
私の魂やら意識を完全消滅する方法やその方法の有無についてはご回答いただけませんでしたが、少しだけ気分が良くなりました。

追加のご回答ありがとうございます。
「意識を完全生滅する方法は、修行を完全し、悟ってから死ぬことです。」とのことですが、完全生滅した人はこれまでにいるのでしょうか?
なぜ悟ってから死ぬと完全生滅できるとわかるのでしょうか?仏様から伺ったのでしょうか?
悟りを開かなくても何も条件なしで楽に魂を消滅させてもらえたら、永遠に一度のわがままを聞いてもらえたら、それこそが真の救いだと考えています。

仮に私がすべてを悟ったとして、輪廻転生しなくなった後どうなりますか?
魂や意識が存在し続ける限り、ろくでもないことになるだけだと思います。

また、「厳密には意識は瞬間ごとに生じて滅していますから、記憶を相続しているだけで、1秒前の自分と今の自分は本当は別人です。」とのことですが、なぜ別人が記憶を相続しているのでしょうか?
何らかの意味があって仏がそのように作ったのだと言われたとしても腑に落ちません。
1秒前が違う自分であるなら、0.1秒前なら同一の自分なのでしょうか?
何秒以内なら同一の自分なのか突き詰めて考えると、そのような仕組みになっているとはちょっと考えにくいです。
記憶を相続しているのに別人というのもどう解釈したらよいか、残念ながら真実ではないように感じます。

阿弥陀仏だか何かは、念仏を唱えることでなのか、私自身の行いによってなのかわかりませんが、
とにかく私の魂やら意識を死後にどこに行かせるかを操れる存在なのでしょう。
(そうでなければ念仏を唱えても極楽に往生させられませんので)

私は私自身を生み出したわけではないはずなので、私の魂や意識を生み出した存在が別にいると思っています。
仮に人が仏の分け御霊だとしても、私個人の意志で勝手に生まれたわけではないはずです。
人の魂や意識を勝手に生み出しておいて、人の魂や意識を望ましいところに連れて行かないのは無責任ではないでしょうか?

自分の魂を消滅させたいと思えば思うほど苦しみが増幅されると別の質問でご回答いただいておりますが、
魂を消滅させたいと思うほど苦しくなる仕組みとその仕組みを作ったのは何者でしょうか?
仏教ではキリスト教的な神を仮定しないとのことですが、あの世も含めてこの世界を作った何者かは確かにいるはずです。
少なくとも私はそのような世界を作った覚えはないです。

こんなことを尋ねるような人格では真実を悟ることなどできないというご意見はごもっともですが、
毒矢に射られて死んでも地獄に落ちてもいいので誰が矢を放ったのかなど全ての真実をお教えいただきたいです。
もしその答えをお持ちでしたら、ぜひご教授いただきたいです。

ご教授ありがとうございます。
仏教ではそのように考えられているということは理解いたしました。
しかしながら、率直に言えば私はそもそも涅槃というのは方便で実際にはあり得ないものだと思っています。
仮にあったとしても、とても困難で常人ではできないことです(簡単にできるなら多くの人が実現しているはずです)ので、仮にあったとしても稀すぎることなので現実的にはあると言えないものです。
それに、阿弥陀仏だか何かは、人の死や輪廻転生は必要なことだからそうするのであって、意味のないことはしないと思っています。
しかし、現実的にあると言えないものを目指すのは苦行そのもので、苦行をしても悟れないという釈迦が到達したという真理に反する行為だと思います。
「一瞬前のあなた(の業)や周囲の因縁により生み出されたのだと思います。」について、私が存在しているのは当然両親がいたからですが、私の意識を作ったのは両親でしょうか?仏教で説かれているようにあの世やこの世を作った存在は本当にいないのでしょうか?人や仏は作られた存在ではないのでしょうか。
輪廻転生というのを考えても、一瞬前の私(の業)や周囲の因縁によって勝手になるものだとしたら、そのような仕組みがあるのではないでしょうか。
その仕組みはどうやってできたのか疑問で、何らかの存在が作ったのではないのでしょうか。
とは言え、逆に時間というものは本来なく、ただそこに根本仏があったという考えも腑に落ちないのですが、根本仏を仮定するとそれはどのように生じたか答えられなくなってしまいます。
なので仏教ではそのような創造主としての存在を仮定しないというのは納得します。
釈迦はそれを理解していたので考えてもしかたのないことは積極的には主張せず、衆生が救われる現実的な方法を主として説いたのかと思います。
いずれにしても、たとえ根本仏が現れて全ての真実を私に教えたとして、私がそれを受け入れて信じなければ何の意味もないし、その存在は人々に真実の全てを教える気がないのはわかりきっています。なぜなら世の中には様々な人々がいろいろなことを述べていて、部分的には真実かもしれませんが、誰一人として全ての真実に到達した者がいないからです。
偉大な存在から何らかの啓示を受けたりしたと主張している方がいますが、それが本当に真実かどうか証明する手段がありません。
嘘も方便と言いますとおり、神や仏が嘘をつくわけがないと考えるのは何の根拠もないことです。
また、そもそも論理的、数学的な根拠に基づく科学が存在していること自体もう嘘でしかありません。恩恵を受けているのに罰当たりですし、このようなことを述べると常軌を逸していると思われますが、物理法則というのは仏が人に対して働きかける都合によっていくらでも変えられてしまうのに、パソコンなどが科学的根拠に基づいて動いているのはいかがなものかと思います。
とは言え、すでにこのような世界ができあがってしまっていますし、私が毒矢に射られて死んで地獄に落ちたくらいでは誰が矢を放ったのかなど全ての真実を理解することは無理ということは悟りましたので、完全消滅させてもらうか全てを諦めて永遠に彷徨うことにします。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
私の考えや今後の方針を少し整理できただけでも大変助かりました。

「死後の世界・死んだらどうなる」問答一覧

気になるあの世

自分はクリスチャン家庭で育ちました。天の父(神)とキリスト(神の子)を信じれば救われるという教えで日々祈り、聖書を学ぶということを約12年間続けて高校生である時ふと疑問に思うことがありました。 仏教もイスラム教もヒンドゥー教もキリスト教もどの教えも悪ではなく善を教えていて、どの教徒も疑うことなく自分の信じたモノに誠心を捧げて真摯に向き合っているのにどれかが答えで他はアウト、地獄に落ちる、罰をくらうというそんな酷いことあってたまるのだろうかと。 ましてや生まれつきの環境もあるだろうし、出会い方もそれぞれだろうし、無宗教もいるだろうし、そんな一つのものに答えがあるのなら世界人口の三分の二以上は落ちるのではないかと。 母に言及すると跳ね除けられてキリストを信じれば救われるの一点張りです。 牧師にも言及しましたが『信じないものたちは終わりの日(キリスト再臨の日)に悔い改めるチャンスがある。信じなさい』と言われました。 個人的にはそれがすごくショックで幻滅しました。 そこで自分は宗教というものから一旦離れて自分なりに解釈してみました。 この地球を一種の魂の試験場だと考えて良い行い(人に感謝されること)をし、肉体的にも精神的にも人として成長し、全うして生きれば魂ポイントが上がって皆等しく天国に行き、当分そこに留まった後また輪廻転生し、悪を働けば魂ポイントがマイナスになりその回収として地獄で訓練的なものをする(借金状態)、回収後は輪廻転生。 そしてこれを繰り返して魂ポイントがある一定数貯まると次のステージ(4次元とか5次元)でまた訓練して魂レベルを高めて最終的のゴールとして神(世界の創造主)と一体化もしくは神に近づく、という結論に至りました。 先祖様、守護霊様の存在は固く信じてます。 ぜひ僕の考えについてご指摘あれば伺いたいです。 またお坊さんとしての解釈、回答者様自身の解釈を聞かせていただきたいです。 最近この事でムヤムヤしてろくに眠れてないです…。 母親とも不仲状態です。

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有り難し有り難し 18
回答数回答 2

2025年7月5日4時18分

荒唐無稽であることが望ましい話です。 標題の日時で検査すると、様々なところから滅びの予言がされていることがわかります。東日本大震災の三倍の規模の津波だとか核ミサイルだとかフィリピン沖だとか隕石だとか。事実無根と軽く扱うには根拠が重なりすぎていてどうしても軽視できません。そして私は「問題が起こる=解決できずに全てが崩落する」と強く感じているので、きっともう一年近くの命なのだなと感じています。 私はただ、痛みや苦しみから逃れられない物質世界で生きていたくないだけなのです。死ぬことよりも、死んだ向こう側で過酷な世界に生まれるのが恐ろしくて恐ろしくて仕方ありません。屠殺される家畜。逃げきれなければ捕食される草食動物。餌に釣られて毒殺される害虫。ああいやだ恐ろしいと思うのはいけないことですか? 生きることは恐ろしい。どう生きても自分より遥かに大きなものによって弄ばれて終わるこの矮小な身体が恐ろしい。脳味噌の誤作動と物質世界に永遠に閉じ込められているのが恐ろしい。そんなことを感じてはいけないのですか?苦しみを受け入れられるようにならなければいけないのですか?安心して生きてはいけないのですか?ガンジス川の濁流に飛び込んで疫病を得なければ救われないのですか?生き物の本来の姿とはどんなものなのですか? この時代のこの場所に生まれただけでものすごく幸運だというのに、その中でさえ上手く生きられなくて苦しんでいる私が、災害や大破局に直面した際に恨みを抱かず運命を粛々と受け入れられる気がしません。「だから生きるのは嫌だったんだ!だからこの世界は嫌なんだ!」と恨み憎しみの塊になったまま死んでしまいそうで、すなわち苦しい来世が確定しています。「今、ここ」に集中しようとしても、破滅のカウントダウンを感じるとそれどころではなくなってしまいます。未来が誰にも見えないのが恐ろしいと傲慢な感情を抱いてしまいます。 私が救いを信じられないのは、今までの人生において大いなるものの救いを感じられなかったからです。破滅の信憑性ばかりが高く、破局、混乱、絶望の未来しか待っていないと漠然と感じています。これらを否定したり適切な距離をとったりするには、あまりにもこの世界の矛盾や欠陥が多すぎます。「今ここ」に生きるよりも、「どうしたら苦しまずに死ねるか」でいっぱいです。 安心して生きることは傲慢ですか?

有り難し有り難し 12
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ