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片想いをしています

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有り難し有り難し 19

こんばんわ。もしよければ回答よろしくおねがいします。
私には片想いの相手がいます。私は九州に住んでいますが、相手は関西に住んでいます。5年ほど前、九州の地元でたまたま通学のバスが一緒だった私達は、学校はちがうけれど相手は私に好意を持ってくれていました。けどその時はぜんぜん好きじゃなくて、私が振ってしまいました。今は相手は大学生になり、関西の大学に通っています。長期の休みになると相手は九州の地元にかえってきます。久々に再会して、相手はすごくかっこよくなってて、性格もおもしろくて、次は私の方が好きになってしまいました。
共通の友達もたくさんいるので、大人数で遊んだり、友達の家で一緒にDVDをみたりと、誘ったら大体は来てくれていました。好きな人といるだけでとても楽しかったし、嬉しかったです。今度デートしてよ!って言うと2人であったりもしてくれました。体の関係も持ってしまいました。私は本当にその彼のことが好きだったので、私と付き合ってほしいと伝えました。すると、君はB型だから付き合えないと言われました。私のことをかわいいと言ったり、遊びにさそったら来てくれるのに(体の関係がなくても)、どうして付き合ってくれないのでしょうか。それから私が猛アピールしても、うるさがられます。けど、ラインはちゃんと返してくれます。長期の休みにしか帰ってこれない彼を、次いつ帰ってくるかな〜と待ち望んでいます。この彼に片想いをしてもうすぐ1年が経ちます。猛アピール(ご飯食べに行こう、のみいこうなどの誘い)をしてるけど、最近はなかなか会ってくれません。忙しそうにはしていますが。
この片想いの時間は無駄な時間でしょうか。もう少しがんばってみたら付き合えるでしょうか。私は彼のことが本当にだいすきです。1度彼の心を奪ったけど、再び彼の心を奪えるでしょうか。どうかよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あまりお勧めできませんナ

体の関係があっても「愛ではない男女関係」もあるのです。
あなたが好きであっても相手が愛の無い男女関係というものがあるものです。
恋に起こりがちな事は「夢」という名の自己妄想。
「自分と彼との理想的ラブストーリー」という自分だけの脳内妄想に自分酔いして相手の本性を見抜けなくなるようではホストに貢ぐ心理に近いです。
真実は頭の中の理想的マイストーリーではなく、実際の彼との関係です。
「B型だから付き合えあえない」
彼の言い訳に聞こえますが、それが本心、答えでしょう。
ちゃんとした恋愛は、すぐにちゃんとした恋愛に発展するものです。それが誠実さというもの。
遊び人は遊び人のままで「いたい」(自分ラブから)ゆえに、誰か一人のものにならず遊んでいるというやましい心理を知ってください。
異性との快楽享楽が目的なので、誰か一人にはおさまらない自己中心的な精神状態なのです。
そういう享楽状態にある異性にあなたのピュアラブを要求しても一方通行。
ラインやメッセージ、言葉というものは表面的なもの。
その奥を見極める力を持っていないと、いずれ誰と結婚なさるにせよ男選びを失敗します。
アソビ人さんは男女問わず、沢山の異性と関係を持って刺激を求めることが目的なので、恋愛向きではありません。
恋愛の終着駅は「家庭的」に落ち着くことです。刺激を求めている段階のうちは恋とも愛とも言えない欲なのです。恋愛と為すべきものではない我欲関係もある。そこを見極めないと、どちらかが傷つく悲しい関係になってしまうものです。傷が深くなる前に断ち切らなければいけない関係もあるのです。
自分の孤独感、承認欲求、愛され欲求を満たす為の恋は、自己ラブの一種です。
甘えたい、自分をかわいがられたい、認めてもらいたいが為のゆえに、ちょっと優しくしてくれる男のためには一晩で何千万も貢いでしまう場合もあるのです。
「好き」の本質が、自分の何かを認めてくれるから、という条件の上に成り立っている場合があるものです。そこを見つめてから、行動すればどうすべきかがハッキリするでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。彼に恋してる自分に恋してるんだなと感じました。自分を愛してくれる男性の方に巡り合うことを願っています。

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