日常生活と禅回答受付中
はじめまして。
在家の立場で仏教、とくに曹洞宗の禅を学び始めた者です。現在は仕事を持ち、社会生活を送っています。
長年、自分の不安や生きづらさは、将来に対する過度な先読みや心の投影、そして同じ考えを繰り返してしまう反芻的な思考から来ていると感じています。
自分は何者なのか、人生や仕事の方向性、選択や責任などについて、考えすぎてしまう傾向があります。
また、生活のリズムが乱れると――たとえば睡眠が不規則になったり、SNSを長時間使ってしまったり、一人で過ごす時間が増えて閉じこもりがちになったりすると――心の状態がさらに不安定になることにも気づきました。
怠けることなく、規律と継続性を大切にしながら、一日一日を「今」に集中して生きていきたいと思っています。
将来的には不安が和らいでいくことを願っていますが、何よりもまず、曹洞宗の禅の考え方をもとに、日常生活を具体的に整えていく方法を学びたいと考えています。
そこでお伺いしたいのですが、
• 曹洞宗の禅では、将来への不安や考えすぎ、反芻的な思考(妄想)にどのように向き合うのでしょうか。
• 在家の修行者が、日常生活の中で大切にすべき基本的なポイントは何でしょうか。
• また、坐禅や生活のリズム、睡眠、仕事との向き合い方など、**具体的な一日の過ごし方や、簡単な生活の指針(ルーティンやプラン)**があれば、ご教示いただけますでしょうか。
初心者のため至らない点も多いかと思いますが、日々の生活の中で「今」に集中して生きていくための、実践的な助言をいただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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『摂受(しょうじゅ)』。
はじめまして。浩文(こうぶん)と申します。
ご質問の内容は、曹洞宗や禅に限ったことではなく、様々な宗教や流派が扱ってきたテーマであると思います。
端的に申し上げると
『汝自身を知れ』
という言葉があるように、
自身のなかにある問題について
それらを闇雲に解消したりするのではなく
『よく見よ』と説くのです。
仏教はもちろん、キリスト教でもイエス自身が『よく見なさい』と繰り返し言っていますね。
ひろさんには
抜きがたい不安がお有りなのですね。
まずは不安を形だけでもいいから
毎朝、「そうか、不安なんだね。」と認めてあげることから始めてみてはいかがでしょうか。
「ひろ、お前は不安なんだね」と
曹洞宗で言うならば
朝、1分でも5分でも坐禅を組む、
お香を焚く、
水を飲む、
外に出て歩く、
息をするように簡単にできることをやるうち
「ひろ、お前の不安はどこから来るのか知りたいと思わないか」
と考えるようになると思います。
不安には必ず原因があります。
仏教ならばそう言うでしょう。
原因と結果の因果関係を説くのですから。
「そうか、だから自分は不安なのか」
とひとつひとつ本当に腑に落ちれば不安は解消するとさえ、仏教は示すようです。
自分とは何者か、という問いは
人や世界とどう関わって生きていくのかという問いと同義です。
自分とは、あらゆる他人との関わり方でできた集合体だからです。
ですからおっしゃるように1人の時間が長いと心が不安定になりやすいのだと思います。
曹洞宗は偈文が多いです。
修行道場では日常生活で何をやるにもいちいち偈文がありまして、
その基本は「摂受(しょうじゅ)」であると思われます。
受け容れ、『受容』ですね。
自身に向けては
「不安なんだね」と認めてあげることを。
外に向けては
「この不安はどこから来るのだろう」と問いを突きつけることを。
私は、教示などということはできませんが
一緒に考えることはできます。
ひろさんの不安の解消はその先に必ずあると信じています。
どうかそのような仲間を見つけて
問いと実践を育んでください。
曹洞宗は一枚岩ではなく
様々なアプローチで説いておられる、様々な師と仲間がおられます。
他の宗派の方々についても然りです。
ご参考いただければ幸いです。
南無大慈大悲哀愍摂受 合掌


