なぜ観音様を信仰するのか回答受付中
私はまだ未熟ですが曹洞宗の僧籍をもっていて色々勉強しています。
そこでふとなぜ観音様や阿弥陀如来様や大黒天様など存在しない(存在してるか分からない)ものを祀ったり信仰しているのだろうと思いました。
お釈迦様は神仏に祈るより自己を見つめて悟る
自分は自分で助けるということを言っていると私は解釈しています。(間違っていたら訂正していただきたいです)
僕より人生経験が豊富であろうお坊様達に意見をお聞きしたいです。
よろしくお願いします🙏
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こんにちは
仏教徒がよく読むお経「般若心経」の出だしで「かんじーざいぼーさつ」と唱えますが、これは「観自在菩薩」と書き、観音様(観世音菩薩)の事です。一番有名なお経の冒頭に観音様がでてきているのです。曹洞宗の両祖さまのひとり瑩山禅師さまの信仰の出発点は観音信仰でした。このように、観音様と仏教は密接に関わっているといえます。
ちょっと視点を変えて話をしますが、日本人には「おてんとうさまが見ている」という思想があります。現代において、おてんとうさま(太陽)は、銀河系における恒星で水素の核融合によって光っているもので、人々の行動を見るような目などついていない、となるでしょうが、それでも私たちは今でも「おてんとうさまが見ている、人のいないところでも悪いことをしないようにしよう」という考えは息づいています。また、「おみくじ」をひいてみたり、おまじないをしてみたり、ご先祖様に手を合わせたり、私たちは今でも見えないものに対し畏敬の気持ちを持って接しています。今では非科学的だと笑い飛ばすかもしれませんが、昨年の大河ドラマ「光る君へ」を見ていてもわかるように、古代の人は現実の問題として呪いをかけており、現在放送中の「べらぼう」でも呪いをかけるシーンがありますので、ほんの少し前まで、みえないものも現実として扱われていた様子がうかがえます。
仏教発生当時のインドも同じだったと想像できます。お釈迦様が悟りを開いたとき、自身が覚った真理を説いても、人々は理解できないだろうから無駄だと考え、そのまま覚りの安楽な世界に安住してしまおうとした。しかし梵天が法を説くよう要請し、これに促されて釈尊は法を説こうと決意した、という話があります。「梵天」は当時のインドの神様で歴史的人物として実在はしていないはずですが、ごく普通の文脈で「梵天」が登場します。このような形でその他のインドの神々も仏教とともに日本まで伝来したのでしょう。
我々が「科学が」「エビデンスが」などと言い始めたのは、人類何千年の歴史の中、ここ数十年程度の事です。長い歴史の中、目に見えないものも信仰され続けてきたのだと思います。
字数の関係で充分なお話しはできませんでしたが、先にお答えをくださったお坊様のおっしゃる通り、各尊格には、それぞれ異なるものがありますので、ご自身でお調べになるといいと思います。
サンタさんは実在しなくても人気キャラ
日本人の大人のほとんどは、サンタさんの実在を信じていないでしょうけど、サンタさんというキャラに親しんでいます。
観音菩薩も、そんな感じではないでしょうか。
観音菩薩というキャラに親しむ人々は多く、その信仰仕方は、一神教の信者が唯一神を信じる信じ方とはかなり異なると思います。
お寺にはテーマパーク的な要素もあり、仏・菩薩の像やきらびやかな伽藍、鐘などを鳴らしたりお香をお供えしたり、お賽銭を入れたり、お寺によってはお守りやお土産も購入できる等、お寺でイベントを楽しむという側面があります。
宗派のメインの御本尊ではない仏像が人気を得ているお寺もあります。
お寺に所属する僧侶になった場合は、歴史あるテーマパークを運営するという「仕事」がくっついてくることが多いと思います。
先日、うちで地蔵盆をやりましたが、浄土宗では地蔵菩薩について詳しい教義はありません。
でも、昔からある地域のお地蔵さん、それにまつわる行事を地域の人々に楽しんでもらうことも、教化のチャンスにできると思っております。
宗侶であれば、自分は自分で助けなければなりません。
大雑把に「観音様や阿弥陀如来様や大黒天様など」と書かれていますが、それぞれの仏菩薩がなぜ信仰されているかということは、それぞれの尊格、それぞれの宗旨によって文脈が異なります。
たとえば、曹洞宗ではなぜ観音菩薩が重視され信仰されるのか、といった質問なら答えようがありますが、質問が大雑把すぎては答えようがありません。
ちなみに曹洞宗と観音信仰についていえば、観音菩薩は仏道をすでに完成されていて事実上、如来と同じでありながら、なお誓願によって菩薩にとどまって衆生済度を続けておられるという、菩薩道の理想像、大先達として尊崇されています。少なくとも宗侶にとっては「お金持ちにしてください」「○○大学に合格させてください」とお願いしてかなえてもらうような存在ではありません。
このように自分の修行の励みとして、いわば理想像として仏を観相する「仏随念」の考え方は大乗仏教だけでなく、釈尊の直説に近いと考えられている上座部経典にも説かれています。
ぜひ、もっといろいろ勉強してみて下さい。
少し、突き放したような言い方になったかも知れませんが、僧籍を持ったということは本物のお坊さんの入り口をすでにくぐったということです。
ただ「自己を見つめて悟る」とか「自分は自分で助ける」とか、どこかで聞いた薄ぼんやりしたフレーズで何かを捉えた気になっている場合ではありません。「自己を見つめて悟る」っていうけど、自己って実際何のこと?どうやったら見つめたことになるの?そもそも悟りって何なの?と、自分自身の問題として引き受けることが求められるのが宗侶です。そういう点では、まさに「自分は自分で助ける」必要があるのです。お互いに精進していきましょう。
質問者からのお礼
今回の回答を受けて、また勉強して自分の意見を固めたいと思います。
願誉浄史様
光禪様
百目鬼洋一様
ご回答ありがとうございました🙏🏼