経典の迷い回答受付中
敬具
私は坐禅を実践しており、曹洞禅に深い敬意を抱いています。
禅においては、実践と師資相承が中心であることも理解しています。
しかし、大正蔵に収められている経典と曹洞禅との関係がよく分かりません。
ある経典は重視され、他の経典はより文脈的に扱われているように見えます。道元禅師自身も経典を拠り所とし、多くの経を引用しています。
もしすべての経典が同じ重みを持たないのであれば、好きな経典だけを選ぶことができてしまい、すべての経典の意味が失われてしまうのではないでしょうか。
具体的な例を挙げます。
曹洞禅では、倫理的な生活は十六条の菩薩戒に基づくと言われています。
しかし『優婆塞戒経』も、在家者の倫理について非常に詳細な規則を示しています。
同じ領域――ここでは在家の倫理――を扱う二つのテキストがある場合、実際の曹洞禅の修行では一方だけが実践されることになるのでしょうか。
もし一方が用いられるなら、もう一方は論理的に曹洞禅の中で教義的な役割を失うことになるのでしょうか。
他の宗教伝統には、比較的明確な文献的基盤があります。
たとえば、上座部仏教にはパーリ聖典があり、キリスト教には聖書があります。
では、曹洞禅においてそれに相当するものは何でしょうか。
経典に関して明確な枠組みや序列は存在するのでしょうか。
この無数に存在する経典を、どのように理解すればよいのでしょうか。
『優婆塞戒経』と菩薩戒の例を用いて、できるだけ明確で判断のはっきりしたご説明をいただけましたら、大変ありがたく存じます。
この問いは私にとって非常に重要です。
なぜなら、現代の曹洞禅の教えと、いくつかの経典が語る内容との間に緊張を感じているからです。
何卒ご教示を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご参考になれば
あなたの質問の趣旨が今一つ理解できませんが、私の回答の一部でもご参考になれば幸いです。
仏教宗派によって重視する経典は異なります。
たとえば、般若心経は経典の中で最もポピュラーといえるものですが、浄土宗や浄土真宗、日蓮宗では基本的に読まれません。
すべての宗派によって共通に読まれる経典は存在しません。
あなたもご指摘のように、曹洞宗では「仏祖正伝菩薩戒」として十六条戒を護持してきました。
すなわち三帰戒(仏・法・僧への帰依)、三聚浄戒(悪を断ち、善を行い、人を救う)、十重禁戒(殺さない、盗まない、淫らなことをしない、嘘をつかない、迷いの酒に酔わない、他人の間違いをあげつらわない、自分を褒めて他人をそしらない、施しを惜しまない、怒りで自分を見失わない、仏・法・僧をそしらない)です。
菩薩戒は大乗経典の成立とともに生まれました。
十重禁戒は中国で五世紀後半に成立した「梵網経」で説かれた「十重禁戒四十八軽戒」が基となっています。
その十重禁戒は、伝統的な「四波羅夷」に「優婆塞戒経」や「菩薩地持経」などが加わって一つにまとめ上げられたものです。
ちなみに四十八軽戒(肉類を食べないなど)は現在では重視されていません。
曹洞宗においてキリスト教の聖書に相当するものは何かということですが、あなたが曹洞禅について学ばれているのなら既にご存じかと思われますが、「修証義」がそれに該当します。
「修証義」の第三章「受戒入位」に十六条戒も詳しく記されています。
「修証義」は道元禅師が著した「正法眼蔵」の文言を抜き出して編集したものですから、「正法眼蔵」こそが曹洞宗の基本経典であるといって良いかもしれません。
道元禅師は「正法眼蔵」で数多くの経典を引用していますが、「辯道話」の中で「仏家には教の殊劣を討論することなく法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし(仏家では経典の教えの優劣を議論せず、法の深い浅いを問題にせず、ただ修業が本物か偽物かを知るべきである)」と明言しています。
曹洞宗の修行の核心はいうまでもなく「只管打坐」(ただひたすらに座る)です。
あなたが坐禅に真剣に取り組んでいるのなら、経典の内容に殊更こだわる必要はないでしょう。
基礎的な流れと宗門の流れのあいだ。
はじめまして。
浩文(こうぶん)と申します。
ご質問の内容は
だいぶ核心に触れられている部分ではないかと思います。
たとえば
『経典に関して明確な枠組みや序列は存在するのでしょうか。』というご質問ですが
実践として行法や読経の種類などはだいたい決まっています。
しかしながら
教義としての枠組みや序列については
「一応」、大乗思想や大乗教学の流れに則っている前提ですが、
そのあたりの連続性、整合性が見えづらいのが現状です。
それがご質問者さんの疑問につながっているのではないかと思います。
(※『現代の曹洞禅の教えと、いくつかの経典が語る内容との間に緊張を感じている』など)
戦前の禅林(宗門の学校)までは、
宗門の雲衲も、有部(部派)、唯識、中観という
大乗教学の基礎を学ばれていたようです。
駒澤大学などは、
戦前は祖録をはじめとして
五位・七十五法・八宗綱要・四教儀・五教章・真言綱要など、
それぞれに単位が設けられていました。
これが戦後になると、
仏教史、思想史、各宗概論など、
基礎については主に歴史学に寄っている感があり、後は宗学研究によるのみといった感じです。
ですから
大乗教学を基盤とするといいながら
それが宗門の思想、とりわけ『正法眼蔵』『禅宗四部録』『伝光録』などとどう結びつくかの考察があまり無く、
ご質問者さんのように少なくない混乱が生じている現状ではないかと思います。
『優婆塞戒経』と十六条戒については、共通部分も多く、
どちらかを選んだからといって
片方を切り捨てるわけではありません。
単に実践として「私はこれをやると決めた」事実が大事です。
もし論理的な矛盾を感じる部分があるのであれば
そもそも曹洞禅の流れがいったいどういう経緯でそうなったかの理解のうえで、参究のしようがあると思います。
もちろんだからといって
現代においても、曹洞禅や実践が仏教上軽んじられることは全くなく、
ご質問者さま同様、私も及ばずながら深い敬意と愛を
この伝統宗門に感じています。
参究の機会を、与えてくださったことに感謝申し上げます。
ご参考いただければ幸いです。
南無釈迦牟尼仏 合掌


