幼い子どもを急な病気で亡くしました回答受付中
数カ月前、もうすぐ3歳になる息子を亡くしました。
息子はそれまで大きな病気をしたこともなく本当に元気な子でした。
亡くなる前日に急な腹痛を訴え、病院に行き一旦は落ち着きました。しかし翌日再び悪化、救急車で運ばれたもののあっという間に症状が進んでしまい亡くなりました。
詳しい病名は控えますが、当初診断されたのは一般的な病気で、私たち両親もおそらく病院の先生方もここまでの急激な展開を予想しておらず、まさか亡くなるとは思わなかったというのが正直な印象でした。
今思うと、息子は私たちが思っていたよりずっとしんどくて、お腹の痛みも相当なものだったのではないかと思います。
救急車を呼ぶ前に病院に電話で相談していましたが、薬を使って様子をみるように言われその通りにしたために搬送が遅れたのではと深く悔いています。
息子を最後に抱っこした時の感触、死後に初めて握った手の冷たさが忘れられません。
「お腹が痛い」と言って横になる息子の様子が何度も何度も思い浮かび、涙が止まらなくなります。
息子はとても優しい子でした。
私は産後に病気をし、息子と遊んでいる最中に目眩を起こすことがありましたが、隣でじっと待っていてくれる子でした。
とても愛嬌があり、行く先々で顔を覚えてもらい、息子のおかげで作れた人間関係がたくさんあります。
こんなに一生懸命生きている可愛らしい子がどうして命を落とさなければならなかったのか。
突然の出来事を受け入れられず、ただ悔しくてたまりません。
主人もとても息子を可愛がっていました。最後に救急車に同乗できなかったことを主人は深く悔やんでおり、言葉に出さないながらも毎日辛い気持ちを胸の奥にしまったまま仕事に行っているようです。
私はそんな主人の前で泣き喚くばかりで、主人を思いやることもできず申し訳なく思います。
葬儀を終えて月日が流れ、その間も世の中はクリスマスやお正月、春休み、そして新学期を迎えました。息子もそんな行事を楽しむはずだったのに。
世の中を見る自分の目はすっかり変わり、全てが恨めしく悲しく感じます。
元気に仲良く過ごす親子を見ると、自分たちとあの家族は何が違ったんだろう、と思うのです。
自分も死にたいと毎日思います。けれども、悔しくて死にきれないのです。
悲しい、寂しい、悔しいばかりの日々は、いつか穏やかな日々になっていくものなのでしょうか。
お坊さんからの回答 1件
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深い悲しみの中で生きるあなたへ
このたびのご縁、あまりにも突然で、あまりにも深いお悲しみの中におられること、胸が締め付けられる思いで拝読いたしました。
お子さまのぬくもり、そして冷たくなった手の感触が離れないのは、それだけ深く愛されていた証でございます。
まず、どうかご自身を責めないでください。
「あの時こうしていれば」と思われるお気持ちは、親として当然のものです。しかし、その時のあなたは、できる限りのことをされていました。結果を知った今だからこそ、そう思えてしまうのです。決して怠ったわけではありません。
仏教では「縁起」と申します。すべての出来事は、無数の因と縁が重なって起こるものであり、誰か一人の力でどうにかできるものではありません。
お子さまのご最期も、決してあなたの判断一つで左右されたものではないのです。
また、「なぜこの子が」とのお問いは、どれほど考えても答えの出ない問いでございます。
親鸞聖人は、この世は思い通りにならぬ「無常」の世界であると見つめられました。理不尽としか言いようのない出来事が起こるのが、この現実であります。
けれども、その中で確かに言えることがあります。
それは、お子さまは短いながらも、精一杯に生き、そして深く愛されていたということです。
優しく、周りに笑顔をもたらし、人と人とのご縁を結んでくれた存在であった。その事実は決して消えることがありません。
今は、悲しみが波のように押し寄せ、他の家族の姿がつらく見えるのも無理のないことです。
ご主人のことも気にかかるでしょうが、まずはご自身の悲しみをそのまま認めてください。泣き喚くことも、大切な弔いの一つです。
悲しみは「なくなる」ものではありません。
けれども時とともに、その形は少しずつ変わってまいります。
鋭い痛みだったものが、やがて静かな祈りや、あたたかな記憶へと移ろっていくことがあります。
どうか焦らずに。
お子さまを想い、涙するその一日一日が、すでに深い愛の営みでございます。
そしていつの日か、その愛が、ほんのわずかでも心を支える灯となる時が訪れることを、静かに願っております。合掌



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