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周りが気になって仕方ありません。

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私は周りが気になって仕方ありません。

自分の外見がとてもコンプレックスです。
また、そのせいでいじめられたこともあります。

そういうことがあってから、
周りの人が話してたら、自分の悪口を言ってるんじゃないか
とどうしても思ってしまいます。

周りが気になりすぎて、常に下を向いて歩いたり、タオルで顔の半分くらいを抑えて歩いたりしています。

周りの声に敏感になってしまいました。

どうしたら周りが少しでも気にならなくなりますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

他人を問題にする自分の意識を問題にしよう

「あの人がこんな事を思っているのではないか」
「あの人私の事を悪く言っているのではないだろうか」
「こんな風に思われたらどうしよう」
まず、結論から申し上げれば
「人には思わせておけ」
「人の事を問題にしているアナタの思いが自分を苦しめているだけ」
「人から嫌われても平気になりなさい」
あなたが❝そう❞思われたくないという思いAというを起こしています。
そのAという精神ガスの性質が毒性を帯びていることを見極めてください。
Aの思いがよぎった時、自分に対して攻撃的な性質であるために苦しい。
だから、他人を気にする思いが浮かんだ時に、打ち上げ花火のように、心の中で打ち上げてしまえばよいのです。
もっと、厳密に言えば、Aの思いが浮かんだ時、その思い自体は悪いものでも、煩悩でもないのです。
その0.0000001秒後にラインの乗っ取り詐欺のように、あなたの心が乗っ取られているのです。
「あなたはあなたの思いに乗っ取られてしまう」事があるのです。
乗っ取られないためには上述の打ち上げ花火スタンスです。(^<^)   
あなたの内側からネガティブな思いが沸いて
ヒュー…・・・〇〇〇 ☆(ドカン!) 〇・・・… (生滅)
手をつけなければ、一切問題になりません。
どんな聖人でも、思いは沸いては来るのです。自分の意思ではなく、脳が、縁に触れて良い思いも良からぬ思いも沸いては来るものなのです。
でも、このように自分を見つめていれば、思いが出てきてもホットケさまになれます。
私は、どんな暗い思いが出てきても、相手にしていないので自然に消えていきます。
今、さっそく自分の内なる思いを見つめてみてください。
PONPONでてきて当然なのです。それをイチイチ取り上げたり、拾い上げ無くなればあなたは今までのコンプレックスの一切を払拭して、最勝の心を成就します。
頑張って自分の思いに打ち克ってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

私は妖怪と呼ばれていました

10代の乙女が自分の容姿が気になるのは当たり前です。

ましてや顔の事でいじめられたりしていたら、顔も隠したくなる気持ちになっても仕方ないと思います。

私は小学校の頃は『オバケ』と呼ばれ中学校では『ハニワ』と呼ばれ高校では『妖怪』と呼ばれました。
特に鼻が無かったり口が無かったりしたわけではありません。
表情が大変暗かったのです。
人から何を言われるか…小学校の時はビクビクしていました。
中学の時は(剣道の道場に2つ通って鬼のように練習していたので)何か言われたら叩きのめそうと身構えました。

想像してみて下さい。私の小中学生の頃…。良い顔しているわけ無いんですよ。
ドラマなどの悪役の顔です。

人間は顔の造作より表情の方が印象が強いと思います。

「どろかぶら」という劇をご存知でしょうか?
このブログにあったので引用します。

http://mugikiri.exblog.jp/8440885

読んでみて下さい。
その中にある

  ・自分を恥じない。
  
  ・人に笑顔で接する。
  
  ・人の立場になって考える。 

試してみてはいかがでしょうか?

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有り難し
おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

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