感受性と解釈について
私は、人の言葉や空気、視線や沈黙を深く拾ってしまいます
昔から感受性が強い自覚はありましたが、心療内科に通う中で、その感受性や苦しさまでも「性格の問題」として扱われてしまう感覚があり、とても苦しくなりました
以前のお医者様から人格障害という言葉を受けたことがあります。
その時、精神症状による恐怖も重なって、「もう自分は終わってしまうのかもしれない」と本気で感じた日がありました。診察室を出たあとも、その言葉が頭から離れず、自分が危険な人間なのではないかと怖くなったことを覚えています
また、以前のお医者様から性的なことを聞かれた経験があり、そのことを学校側に伝えたところ、転院を勧められ、その後転院しました。ですが、転院後も、自分の感じていた苦しさや違和感を説明しようとすると、「考えすぎ」「攻撃的」「白黒思考」「被害的」「自己像と実物が一致していない」などの言葉で理解されることがありました。ですが、自分の中では、誰かを傷つけたいわけではなく、本当は理解し合いたい、優しくありたいと思っています
実際、精神科関係以外の方々からは、「優しい」「大好き」と言われることも多く、自分でも人を傷つけたいというより、むしろ理解したい気持ちの方が強いと思っています。だからこそ、「人格の問題」といった言葉を思い出す度に、本当に苦しいです
だけど、相手が誰かの悪口を言っていたり、悪意で誰かを傷つけている場面を見るたびに、私は勝手に相手の善意を期待していたのだと気づき、勝手に傷つき、関係を断ち切ってしまいます
同年代で心から信頼できた人は、生まれてこの方、一人もできたことがありません
また、人に執着されたり、依存されたり、過度な期待を向けられることにも強い恐怖があります。
ただその一方で、「精神科医の言うことなら正しくて、やはり自分がおかしいのかもしれない」という思考も頭から離れません。自分の感じ方を信じたい気持ちと、自分を疑ってしまう気持ちの間でずっと揺れています
現在は、心療内科からも離れています
私は、自分を曲げたくありません。ですが同時に、人を信じたい気持ちも失いたくありません
こうした感受性の強さや、人への期待と失望の激しさに、どう向き合っていけばよいのでしょうか
また、専門家の言葉で自分を疑い続けてしまう時、自分の感覚をどう信じ直せばよいのでしょうか
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
やり取りを読ませていただきました。
Nullさんは、「感受性が強い」というより、
“人と人との認識のズレ”
について、とても深く考えておられる方なのだと感じました。
人はそれぞれ、
自分だけの経験や価値観、記憶を通して世界を見ています。
つまり本来は、
「同じ世界を見ている」ようでいて、
実際には、それぞれ少し違う世界を見ているのです。
だから当然、
人と人との間にはズレが生まれます。
ある人には冗談でも、
ある人には攻撃に感じる。
ある人には普通でも、
ある人には強い違和感として入ってくる。
Nullさんは、
その“世界のズレ”を強く感じ取ってしまう方なのだと思います。
そして一般的に言われる「感受性の強い方」ほど、
そのズレや空気の歪みを深く拾いやすい。
ですから、
「Nullさんが感じた違和感が全部間違いだった」
とは、私には思えません。
ただ、人はズレたままでは、
意思疎通が難しくなります。
そこで社会の中では、
“なるべく多くの人が共有しやすい感覚”
として、
一般的な常識や社会性、いわゆる「普通」が作られていきます。
ですが、それは絶対の真理というより、
“多くの人がピントを合わせやすい位置”
に近いものなのだと思います。
もちろん、
そのピントに合わせづらい人もいます。
だから大切なのは、
「自分の世界を捨てること」
でも、「自分の感覚だけを絶対視すること」
でもなく、
“相手はどんな世界を見ているのか”
を知ろうとすることだと思います。
「私はこう感じた」を持ちながらも、
「相手はどう感じているのだろう」を観察する。
すると、
自分との違いや、
解釈のズレを受け取る見方も変わってきます。
しかも、興味を持って話を来てくれたら相手も嬉しく思います。
人間関係とは、
相手が自分の世界にピントを合わせるのか、
自分が相手の世界にピントを合わせるのか、
あるいは、お互いの落としどころを探しながら、
“二人のピントが重なる場所”を見つけていく作業なのだと思います。
そうやって、「どちらかだけが正しい」
ではなく、「見えている世界が違うのかもしれない」
という視点を持てるようになると、
ズレそのものに対する恐怖も、
少しずつ変わっていくように思います。
Null 様 相談ありがとうございます。
感受性が強いことを自他ともに優しく受け止めることが求められているように思いますがいかがでしょうか?
特に自分に対して、感受性が強いことを厳しい目で見ていませんか?
感受性が強いがために、批判的であったり評価的であったりと自分を諫めていませんか?(推測な問ですいません)
「自性清浄心」(じしょうしょうじょうしん)この言葉を信じてみてはいかがでしょうか。「心の本性は清らかである」ということです。
感受性が強く、心が揺さぶられたとしても、心の中心の清浄なることは揺さぶられることなく、そのまま穏やかでいられると意識することで、期待や激しさを軽減できて、そのことに向き合い、ポジティブな解釈が得られるように思います。
そしてさらに、この「自性清浄心」に到る道として、わたしはあなたにコンパッション(思いやり=仏教でいう「慈しみ」)を育むことをお薦めします。
自分への思いやりです。
ざわつく心を思いやりを持って見つめて、まずはそのざわつきを癒やす。自分自身を責めず、悪く思わず、安心安全を感じるようにする。心が温かくなった経験を思い出し、その時の身体感覚に充分に浸ってみる。そしてより穏やかさ・慈しみをもって、自らを癒し、なだめて、ものごとを寛容に観る。さらにその穏やかな心で勇気をもって自分の気持ちを発出する。
このような段階をふんで、自らに思いやりを向け続けることで、強い感受性をより良い形で受け止めることが出来るでしょう。と私は思います。
参考にしてください。
追伸:返信さらに追記ありがとうございました。その認識の問題も思いやり(慈しみ)を持つことで、ずれが解消されと私は思います。思いやりには三方向あります。自分への思いやり・他者への思いやり、他者からの思いやりです。字数制限で詳しくのべられませんが、この三方向を確かなものにすることにより、自他ともに平等に観る眼を持つようになるのです。平等に観る眼を育てることが、「自分の感受性によって拾った違和感や対人関係上の不穏さが、ただの歪んだ受け取りなのか、それとも現実に含まれていたものなのか、その判断をどう立て直すかについて」の解決への道筋と私は考えております。対話を続けることもズレを減らす役に立つかと思います。ご縁が続きますように。有難うございました。合掌礼
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
とても優しい言葉をかけてくださったこと、感謝しております。
「自性清浄心」という考え方も初めて知り、「本質まで汚れているわけではない」という言葉には少し安心しました。
ただ、私自身の感覚としては、自己否定そのものに苦しんでいるというより、「世界とのズレ」に苦しんでいる感覚の方が近いのかもしれません。
人の言葉や空気、悪意や矛盾を強く拾ってしまうこと、その違和感を伝えようとした時に「考えすぎ」「被害的」などの言葉で処理されてしまうことに、深く傷ついてきました。
そのため、「自分を責めないこと」だけではまだ整理しきれない部分もありますが、自分への思いやりという視点も持ちながら、少しずつ考えていきたいと思います。
新しい視点をくださったこと、本当に感謝しております。
ご回答ありがとうございました。
追記です。
私は、自己肯定感の低さについて相談していたのではありません。
自分の感受性によって拾った違和感や対人関係上の不穏さが、ただの歪んだ受け取りなのか、それとも現実に含まれていたものなのか、その判断をどう立て直すかについて相談していました。
それは単なる自己受容の問題ではなく、認識の問題でもあります。
にもかかわらず、今回のご回答ではその点が自己肯定感や自分への思いやりの話に回収され、私の問いの意図は十分に受け取られていないように感じました。
この場では、私が求めていた対話は得られないと判断しました。
ご慈悲や優しさは受け取っております。
ですが、私にとって苦しかったのは、まさにその善意の中で、自分の問いが自己肯定感や自己受容の問題へと回収され、認識の問題としては受け取られなかったことでした。
優しさは本当に伝わりました。
長文失礼いたしました。
ご返信ありがとうございました。
確かに、関係を築く上で思いやりは、本当に大切だと思います。
ですが、私が相談していたのは、思いやりの持ち方そのものではなく、自分の認識をどう立て直すかという問題でした。
お優しい言葉をかけてくださったことには感謝しております。
ありがとうございました。



昼間は、ほとんど法務に出ておりますので、夜の応対になります。
できれば、事前にメールで相談内容を教えていただければ、スムーズなセッションになるように思います。
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