自分の心が狭すぎる気がする回答受付中
高校生です。中学生の弟が、定期テストの勉強を私の過去問を使って勉強しているのにモヤモヤします。とりあえず表向きは、過去問を使った勉強は受験の役に立たないと言って辞めるよう頼んでますが、弟は聞き入れる気配はありません。本心としては、私は長姉なので過去問などなく、自力で全て勉強して地元ではそこそこ名の通った高校に合格したので、私の過去問を利用して良い成績を取ろうとする弟を許せそうにありません。また、母親などからは、弟は制服等々全てお下がりなのだからテスト問題くらい渡してあげなければ不公平だろうと宥められ弟の肩を持ちます。しかし、私の上に兄弟がいないことと、私の代から制服等が一斉にリニューアルしたことで、私には制服をお下がりでもらう代わりに過去問を獲得するなんていう選択肢はありませんでした。それができるなら私は迷わずそうしてたと思います。どうしても弟との不公平さを感じるとともに、私の努力が軽んじられているようで嫌になります。また、客観的に見たらそこまでイライラする事案でもないのかなとふと思い、自己嫌悪にも陥ります。この心の狭さをどうにかして、できれば弟の勉強も素直に応援してあげたいです。ご回答いただけると幸いです。
常にやるべきことから逃げて易きに流れる そのくせ自分に甘く、他人に厳しい
お坊さんからの回答 1件
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「人間はそれぞれの条件で生きている」と考えてみてください
仏教の考え方ではあらゆる生命は、業によって生命として生じる形が決まります。それぞれ業は異なっているので人間もまた、一人として同じ条件で生まれてくることはありません。
どこに生まれて、誰の子供で、どのような体格で、何が好きで、何が嫌いで、何が得意で、、、云々と、生まれた瞬間から個人はその個人にしかない条件で生き始めて、生きて行かなければなりません。そういう意味では、人間は平等ではありません。
たとえば生まれつき両腕のない人が、音楽が好きでピアニストとして生きて行きたいと願っても、ほぼ叶うことはないでしょう。リアルタイムで反応する完全な義肢が開発されるとか、画期的な医療技術で両腕が再建されるとか、頭の中でならいくらでも可能にする道筋は想像できますが、実現させることはできません。
それでも「音楽」「ピアノ」という志向を捨てずに生きて行こうとするなら、作曲家の道に進むとか、電子音源を使った打ち込みでの演奏家になるとか、あるいは評論家になるように努力するといった生き方が選べるかもしれません。
これは極端な例ですが、桐葉さんが「お姉さん」で「弟さんがいる」という条件も、基本的には同じ事です。「自分の上に兄弟がいたら」「制服のリニューアルがなかったら」と頭の中でいろいろ想像できても、それは実現することはできません。
人間はそれぞれの条件によって実現できる道筋で生きています。それは、お互いに優劣や損得の関係にはありません。
たとえば、100メートル競技の選手が銀メダルを取った同じトラックを2000メートル競技の選手が走って金メダルを取っても、そのことが100メートルの選手の銀メダルを軽んじることにはなりません。どちらの選手が優れているとかどちらの競技が得であるということはなく、ただ条件が違うだけです。
人間が苦しむのは、それぞれの持つ条件そのものではなく、その条件で実現できる範囲や実現できた結果を超えた自分の想像(妄想)に囚われてしまうからです。
「公平」という考え方は、仏教的には、それぞれの生命がそれぞれの条件で生きて行く時にお互いに邪魔せず、できれば助け合っていけるようにという心構えといえるのではないでしょうか。
「私は私の条件でこういう結果をだした、あなたはあなたの条件で結果をめざしなさい」という心持ちで、弟さんに接してあげてはいかがでしょうか。


