生きていくための心の持ち方
最近、自分が、なぜ、なんのため、生きているのかがよくわかりません。
死を恐れて、というか、死についての事ばかり考えてしまい、不安で気分が悪くなって、食べた物を戻したり、やらなきゃいけないことが手につかなかったりしてしまいます。
自分では前向きに考えていこうとしているのですが、不確定な未来や、自分の最期が頭にちらついてしまいます。
友人などは支えてくれますが、どうにも気力が湧いてきません。
このような状態を脱するための考え方のようなものはありますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
縁起により存在し、人生から求められている
こーびら様はじめまして。ご相談拝見しました。
なんのために生きているのか。仏教的に言うと、
人間が生きていることに意味はない、縁起しているから生きているのだ。意味があるから生きているわけではない。しかし意味なく生きているわけでもない。
というところでしょうか。私も先日出会った言葉です。
私たちは望んで生まれてきたわけではありません。なにか目的や志を持って生まれてきたわけでもなく、生まれてきてから全ての人にそういった目的が与えられるわけでもありません。
やはりそれは見出していくものなのではないでしょうか。それが人生という歩みであります。こーびらさんのその歩みは他のだれのものでもない、こーびらさんただお一人の歩みであります。誰も代わりはいません。まずそこに意義が見出せるのではないかと思います。
人生の折々で、
お金のため、仕事のため、家族のため、健康のため
その時その時で生きがいを定めることはできるかもしれません。しかしそのどれも縁起(独立した存在ではなく、相互依存の関係に縁って生じている)であるがゆえに諸行無常であり、移ろい変わることから奪われたり無くなったりします。
しかしどうでしょう、発想を逆転すると人生から意味が奪われることはなくなります。
人生に何を私たちが求めるか、ではなく私たちが人生から何を求められているのかという考えです。
人生からは様々な困難や、喜び悲しみが投げかけられます。その一つ一つにおいて私たちは人生から試され、求められているのです。
その時にどういう一歩を踏み出すのか、私たちには選択の自由があります。この一点において人生から完全に意味が奪われることはありません。
こーびらさんの選択はこーびらさんだけの歩みです。しかしその歩みは同時に、かず数えきれないご縁によって支えられたかけがえのない歩みでもあります。
私はここに生きる意味、そして存在することの尊さを見出すことができると考えています。
ちなみに私の上記の考えは仏教とV.Eフランクルの考えから影響を受けています。
これからこーびらさんも尊い教えに出会い、仏教でいう出離生死の道、安心して生き、安心して死んでいける道を共に歩めることを念じております。
質問者からのお礼
丁寧な回答、ありがとうございました。
人生から何かを求められているという部分が、自分にはなかった考えで、とてもよい考えだなと思います。
少し心が落ち着いたように思えるので、またゆっくり頑張っていきたいと思います。
ありがとうございました。