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ある言動が欲深く思えて、不快です。

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私の勤める会社に、何かと欲張りな人がいて、その人の言動に嫌な気持ちが起こります。

その人は40歳くらいの男性で、奥さんと子供3人がいて、住宅ローンや子どもの習い事と家計が大変らしいです。奥さんは働いていません。

家計が大変なのは察するところですが、何かにつけて会社でもらったものを多くもらおうとします。いつも会社の備品ももらおうとして、この前会社の業務で使っていた家電が不要になったとき、勝手にもらおうとしていました。

先日、会社の得意先からくじ引きを沢山もらって、他の人は行けないので、私とその男性でわけました。私はもらった景品の内から、少しだけど行けなかった皆におすそ分けしました。その男性は会社に持ってくるどころか、自分のママ友たちにあげたそうです。

その男性にも少しお菓子をあげたのですが、『これもっとちょうだい』と言われました。どこまで欲しがるのだろうと思い、絶句してしまったら、『冗談、冗談』と言ってました。

そしていつも『給料あげてほしい。少ない。』と言います。
お金って大事だと思います。お金がないと生きていけないし、一家を支えてるのも、きっと大変なのだと思います。
でも、そんなに欲張って、物乞いみたいに人や会社にたかって、そのくせお給料をくれる会社には不満しか言わず、私は見るのも聞くのもつらいです。
そんなに苦しいなら、生活ランクを落としたり、つつましやかに暮らせばよいだけのことなのに、周りから利益を取ろうとして賤しいと思います。

他人のこと悪く言ってすみません。
こういう人に対して、どう思えば心が安らかになると思いますか?

どうか、よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

彼の土俵から降りましょう

>他人のこと悪く言ってすみません
この一言に凝縮されていると思います。
男性がちぃちさんのご家族やお友だちならアドバイスをしたくもなるでしょう。しかし、やっぱり他人なんです。

きっと、そんな方なら、その本性はちぃちさんの他にも分かる人には分かっています。
見るのも聞くのもつらいですから、せめて同じ土俵から降りて差し上げてください。一人で相撲は取れませんので。そして悪く言うのも悪く見るのもやめて、みんながのぼりたくなるような、ちぃちさんの素晴らしい土俵を作り上げていきましょう。

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個別相談可能
住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

問題にする自分の心が問題。

他人の行を気にするのもあなたの心。
他人が気になっているという状態のあなたの心。
「問題は相手ではなく、相手を問題にするあなたの心なのです。」
「治すべきは、相手ではなく、相手の行いに是非現悪の心を起こして、苦しみを生じさせているあなたの心なのです。」
ここを今回、課題にしてみてください。
「ああ、私は、あの人を気にして、それによって心を苦しめている。何と愚かしいことか、相手を問題にする、自分の心を問題にして、人や物を❝わたくし❞しないように心をおさめよう。」と。

単にその人の浅ましさをやめさせたいのであれば、その旨を上手に伝えればよいかと思いますが、物欲の塊のような無宗教、不道徳な人間はこの世にはワンサカいます。習癖なのでなかなか変えられるものではありません。
そういう人の為にも本当は宗教が存在するのですが、そういう人は誰かに言われて心底恥ずかしい思いをしない限りはなかなか自分の行いの愚かしさに気が付かないものです。
仏教は他人を変える事ではありません。
自分が自分の心をおさめる事です。
あなたの望む答えではないことは重々承知ですが、この点を熟考なさっていただきたいと思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

増田様ご回答いただけて嬉しいです。ありがとうございます。その人に対してイライラしてたのは、同じ土俵に上がっていたからなのですね。正直言うと、私もそれ欲しいなっていう気持ちがどこかにありました。書き込みが終わった時、少しその人に対する嫌な気持ちが無くなりました。例えるなら『枯れた』感じです。そして、土俵から降りなさいって教えていただいて、今は枯れた感情を海や川に流したイメージです。私の土俵は汚れなく、美しくしたいです。御嶽山で小学生をかばって上着をかけてあげた男性の心のように、温かいものにしたいです。素敵なイメージを湧かせてくれて、感謝します。 ちぃち

丹下様
いつも深い仏教的なお言葉をありがとうございます。確かにそうですね。例えば相手の行動を変えさせたいと思っても、沢山の労力が伴って、それでも変えられないかもしれない。変えられたとしても恥をかかせたりして、恨みを買うかもしれません。わざわざ心に波風を立てているのは自分自身なのかもしれません。私は自分で自分の心をおさめると言うことですね。皆様に共通することですが、このような迷いも一旦受け止めたうえでお答え下さり、本当に救われます。仏様の懐の広さに、只々感じ入ります。自分の小ささを思い知らされ、何だかすごく清々しいです。もっと優しくなりたいな、と祈るばかりです。本当にありがとうございます。 ちぃち

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