人の目が気になって
私は昔から他人の目が異常に気になったり、人から嫌われたくないと思って生きてきました。
今でもその思いが強く、他人の何気ない言葉や態度に落ち込んだり、孤独感を感じてしまいます。
どうやったら自分は自分、他人は他人と思うことができますか?他人の言動を気にせずに自分らしく強く生きていきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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きれいさっぱり忘れましょう
はじめまして、質問を拝読しました。他人の目が気になる方結構多いですよね。それは自分は良く見られたいと思うからでしょうか。人は少なからず自分が大事ですし少しでもよく見られたいものだと思います。
私もまだまだそうです。
しかし、自分が他人に言った言葉や他人の髪型などって以外と忘れてしまってませんか、いい加減なものですよね人と言うのは、だから他の人に言われた事で落ち込まなくていいとおもいますよ。言った当の本人はあっさり忘れているかもしれません。
他人の言動で落ち込む事があれば、深く考えず、「心にもない事言う人だけど、きっとすぐ忘れているだろうから私も忘れてしまおう」でいいかと思いますよ。
「他山の石」
さー様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
他を気にしてしまうことは、ある意味で仕方がありません。
なぜならば、私というものが何であるのかということは、他と比較してでしか判断できないからです。
以前にも用いた例えですが、一本のひもがあると想像して下さい。
何も比べるモノがなければ、それはただの一本のひも。そのひもには、長いも、短いも、太いも細いも、軽いも重たいもありません。
しかし、ただの一本のひもだったものに、他のひもを持ってくると、ただの一本のひもではなくなってしまいます。もう一本のひもと比べて、短いだとか、軽いだとか、細いだとか・・と言ったように評価、価値が生じてしまうことになるのであります。素材まで違うものをたくさん用意すれば、もうキリがないぐらいにあれやこれやと差異が生じることになっていきます。
しかし、上記のように、差異こそが、それが何であるのか、つまり、自分が何ものであるのかを知るためには必要になるのであります。
この世が多様なモノ・コトの関係性で成り立っている以上は、その差異が生じるのは仕方がありません。
むしろ、そのように多様化した差異に富むモノ・コトによる営みがあるからこそ、私たちも無数の関係性の中で、生かされて生きることができているのであります。
ですので、差異があり、他との関係性において、自分という存在が成り立っている以上は、周りを気にせずに生きられるというものではないのであります。
つまり、何が言いたいのかと申しますと、どうせ他との関係性は無視できない以上、他が気になるというのは当然として、それにより、自分の価値、立ち位置を正確に知り、それを活かして、自分という存在の長所と短所を見極めて、うまく人生を前へと進められるように、幸せになれるように、と調えていくことが肝要になります。
足りない部分、短所を何らかで補ったり、また、他の支えや助けをもらったりと、それで、また、自分の長所を活かしてできることがあれば、他のための支えや助けになってあげたりできていければ良いのであります。
とにかく、他の言動を「他山の石」として、自分磨きの一つとして活かしていけれるように、少し心に余裕も持って客観視できるようにされてみるのも一つです。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。
いつか自分は自分、人は人と思って自分らしく生きていける日が来るといいなと思っております。