他人を気にしすぎてしまいます
よろしくお願いいたします。
私は、常に他人からの評価を気にしてしまいます。
いろいろなことにそれは反映されますが、たとえば趣味で描いているイラストです。
自分ではとてもうまくできたと思っているし、実際以前に描いたものよりもずっと出来がいい、というものでも、思うような評価を貰えずに苦しむことが多々あります。自分と同等、もしくはそれ以下(であるように思ってしまいます)の作品が自分のものより評価されている、ということがさらに自分を苦しめます。
自己評価と他者評価とのギャップに苦しんでいる、と言えばいいのでしょうか。
しかし、絵を描くのは楽しく、やめたいとは思いません。
自分は自分、他人は他人、と思えればいいのでしょうが、そう理屈ではわかっていてもできません。
たとえば、自分というものを否定され続けてきたならば、生きていくために、肯定されるために「他者」を取り入れるほかどうしたらよかったと言うのでしょうか。
というのも、私は不美人ですが、小中の頃から勉強も運動も芸術も、そこそこにできたのです。しかし、勉強も運動もできて部活も強く、顔が可愛くて男女問わず人気者の女の子が幼馴染みとして長年隣にいた、という過去が私のこの人格形成に影響しているのではないか、と最近になって思うようにもなりました。
まとまらなくてすみません。
毎日苦しいです。助けてください。
他人からの目を気にしやすい性格です。 大人しい、自分に自信がないとよく言われますし、自覚はあります。が、プライドは高い面があります。そのプライドが本当に自分に見合ったものなのか、自分でもわかりません。
趣味を始めとして、学問、異性関係など、他人がもてはやされることに嫉妬してしまいます。一時的に満たされてもそれは長く続きません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私も
そうですよ。
悪い評価よりいい評価を受けたいし、認められたい。そんな思いを持っています。
同じことをしても、同期の僧より
『俺のほうが上手にできてるやん』
などと思ってしまうのです。
しかし、この思いは目薬さんと私だけが持つ思いでしょうか?
誰もが良く評価されたいし、認めてもらいたいという思いを持っているのではないですか?
嘘でも褒め言葉は嬉しいし、本当のことでもけなされると不愉快になるのが人間です。
仏教の二つの言葉を紹介しますね。
まず『凡夫』(ぼんぶ、ぼんぷ)
これは完全無欠な仏さまに対して、煩悩に悩ませれている私たちの事です。
逆に言えば仏様でない限り、煩悩とは付き合っていかねばならない私たちなんです。
そしてそんな私たち(凡夫)は
『慢心』を持っています。
『あの人は高慢な人だ』の『慢』です。
『慢』は『比べることで生じる感情』のことです。
人と比べては「あいつより俺のほうができてる」と相手より自分を高い位置に持っていくことを高慢というのです。
他にも、人と比べて自分のほうが劣っている。と思う『慢』もあります。
ようは私たちは『比べること』でさまざまに悩み、苦しんでいるんですね。
しかし、決してそんな『慢』を取り去ろうとしないでくださいね!
先ほど言ったように、私たちは『凡夫』です。いち人間です。
目、耳、鼻、口ある限りついてくるのが煩悩です。
煩悩ないのは仏様だけです。
まずは、認めてもらいたい自分、人より優位に立ちたい自分。
そんな自分を、そのまま認めてあげてください。
私たちはみんな『凡夫』なんだ。
その自覚に立ってください。
そしてそんな『凡夫』をわが子を見守るような大きな慈悲のまなざしでご覧になられているのが
仏様なんです。
そのままの自分を一度受け入れてみましょう。
目薬さん、初めまして。
大乗さんが、仏教的なことを丁寧に答えておられますし、私も同感です。
「仏教」という教えは全て「自分との対話」が必要だと思っています。
浄土真宗では「阿弥陀様にそのままおまかせする」とお話しさせて頂くのですが、「まかせる」ことは、楽なことではないんです。
いつも、自分を顧みる。いつもお手本である阿弥陀様の慈悲の心と自分を比べる。
そうしていくと、どこかで自己嫌悪に陥るんです。(私だけかもしれませんが(笑))
「これが正しい姿や行い」だと分かっているのに、なぜ出来ないんだろう。
自分の中に原因を探っていくのが仏教なのに、なぜ他人のせいにしているんだろう。
仏教を学んでいくなかで、私はどうしようもない自分に気づきました。
僧侶としてはおろか、人として最悪だなと。
そんな時、先生がこんな話をしてくれました。
「例えば、紙。どちらが裏でどちらが表かは誰が決めますか?私です。どんなものでも、表がなければ裏もない。共存しているからこそ、「紙」として存在出来る。生と死もそうです。生きなければ死はない。死ない体ならば生きている価値すら分からない。凡夫という自分を認めなければ、良い自分さえ存在しない」私は、なぜか「そうか、どうしようもない自分でいいんだ。どうしようもない自分を支えてくれる人がいるから、私は良い面も持ち自分の存在価値を示そうとしているんだ」と腑に落ちました。
仏教は辛さを超えて救いがあります。「ちっぽけな自分」を自覚する必要があるんです。
「ちっぽけな自分」を支えているのは、私であり、全ての物・人。
過去の経験から、ご自身のことを考えるというのは素晴らしいことです。大切なのは、「美人な友達」に重きをおくのではなく、「自分」です。
自分のせいだと思ったら、辛いかもしれません。でも、辛いことに向き合った目薬さんの意識は変わっているはずです。
「自分は自分。他人は他人」と思うことが、今よりもずっと楽になるはずです。
自分は自分。私の良いところは、妬むことじゃない。自分のイラストの出来を信じてるから悔しいだけ。悔しいから頑張るんだ。悔しいから評価されたい、その為には「負けた」人の作品や行動をよく観察して、力にすればいいんです。
誰だって「自分にやさしく他人に厳しい」ことを変えるのは大変です。
どちらを表にするかで、自分に対する思いが変わると思っています。
心の目薬
目薬様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
ハンドルネームに掛けまして・・心の目薬を差してみましょう。
私たちはモノ・コトを見る際には、どうしても自分を中心として判断してしまいます。それにより、偏見や差別、恣意性などが邪魔してしまうことで、モノ・コトのありのままが見えなくなっていることがございます。
ありのままのモノ・コトが見えない、くもって、ヨゴレてしまっている、その原因は、煩悩(嫉妬・怨み・怒り・貪り・慢など)にあるとして、そのくもり・ヨゴレを取るための薬が、仏教となります。
更に、そのくもり・ヨゴレの正体が何かと言えば、「無明」(根本的無知)に原因があるとして、その無明の対治に取り組むことも必要となります。
では、その「無明」とは何かとなれば、自分も他も、実体として存在しているのだという誤った見解へのとらわれということになります。
その誤った見解を治すために必要となる薬が、「空と縁起」の理解という仏教の智慧になります。
さて、ここまでは小難しいことになりましたが・・
まあ、とにかく比べてしまうことは、ある意味で仕方がありません。
なぜならば、自分というものが何であるのかということは、他と相対的に比較してでしか判断できないからです。
それは、更に言えば、他との関係性に依存して自分というものも成り立っていると言いえるものであり、また、私たちは、独りで存在できるものではなく、色々なモノ・コトに依存していかないと存在できないものということでございます。
そこで、他と比べること、他に依存することは当然として、それにより、自分の価値、立ち位置を正確に知り、それを活かして、自分という存在の長所と短所を見極めて、うまく人生を前へと進められるように、幸せになれるように、調えることが肝要になるのではないかと考える次第でございます。
この依存関係の世界では、互いに支え合い、助け合いが大切になります。足りない部分、短所は、他の支えや助けをもらったり、また、自分の長所を活かしてできることがあれば、他のための支えや助けになってあげたりできていけると良いのであります。
あまり他について、排除しようとか、無視しようとか、そう深刻に考えられず、他へのお互い様、お陰様という気持ちもお持ち頂ければ、有り難いことであるかと存じます。
川口英俊 合掌