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ご利益、万倍功徳について

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有り難し有り難し 14

他にも質問していますが、様々なお寺等を調べている中で疑問があり質問させて頂きます。

①1年に一度のご開帳で、直に○○様を拝みお参りできる日。というのが、様々な所であるみたいなのですが、やはり閉ざされた状態でお願い事をするよりも、直で、お願い事等をしたほうが、よりご利益がありますか?

②「万倍功徳をいただける特別な祈祷」とはどの様な意味でしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

願いを持たぬことこそ万倍功徳

夢を壊すようで悪いのですが、神様も仏さまもあなたの都合よく願いをかなえてはくれません。
より確かな生き方をして頂きたいので申し上げるのですが、以下のことを自分自身に問いかけて頂くと、良い功徳になりましょう。

①私の言っている「良いこと」「悪いこと」って結局❝私にとって❞だけの良いこと・悪いことではなかろうか?一日24時間の中でよいこともあれば悪いこともある。そのジャッジをしているのは結局私だ。
良いことばかり来ることを期待していても何になるだろうか。そうでなかった時ガッカリするだけじゃなかろうか。そういう小さな一喜一憂、小さな枠にとらわれて生きていく小さな生き方がが子供の教育にとっても今後の自分の人生にとっても本当に本当に良いことであろうか?

②今与えられていること、今授かっている眼の前を大事にしない内から、他の別の私の理想ばかりを求めてしまっていないだろうか?今の幸せをしっかり享受せずに、不幸と決めつけて❝いつかきっと❞的なご利益、功徳ばかりを追い求めていく生き方をしている今の私の宗教観は果たして仏教と言えるだろうか?

③子供たちに「不完全」のラベルを貼り付けているのは本当はワタシなのではないだろうか。
世の中にはもっと難病でもたくましく生きている親御さんたちも居られる。
子供たちは私ほど苦に思っていないのではないだろうか?
子供の為、子供の為、と思って来たが本当は自分の為なのではないだろうか?
本当は、私は子供たちに何をしてあげるべきなのだろうか。
私が暗く沈んでいるより、現実をしっかり受け止めて、笑顔でいることの方が、夫も安心し、子供たちもたとえ難病であっても精神的に満たされた子供になるのではないだろうか?

最後に私がご祈祷をして差し上げましょう。
「今日からあなたは、目の前の何げないことの中にも幸せを見出せるようになりますように。
それによって沢山の楽しいことが見出される頭脳になりますように。
幸せ探しが上手になって今まで以上に幸せになりますように。
そして如何なる不幸があっても、それを乗り越えられる逞しさや柔軟性が身につきますように。
さらには、これから先、あなたの数多くの願いがかなってもかなわなくても、全く平気な、大丈夫な生き方を手に入れられますように。」

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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