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何か良くないことが起こった時

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有り難し有り難し 29

悪いことが自分や他人の身に起こった時、それぞれの宗派ではそれをどうとらえますか?

僕は、犯罪や事故のニュースを見ると被害にあわれた方がどんなに辛かったか想像して悲しくなってしまいます。

また、悪いことが起こるのは前世から今までに悪いことをしたからだと言う人があったんですが、
これは仏教の教えとは違うものですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

前世の因縁は仏教思想ではありません。

 前世の因縁は皆さん言われておりますが、これはインドのバラモン教の思想でカースト制度の正当性を伝えるために用いられたもので仏教はそこから逃れるためにお釈迦様が唱えられた宗教であります。ですから、仏教の世界には実力や人徳、人間関係により形成されるものであり、そこには差別は皆無と言っていいほどないに等しいのです。ちょっと言い過ぎですが、目指すところはそこですので悪しからず。
 そこを踏まえて、事故や犯罪は様々な合理的な要因によって起されるものであり、決して、前世は関係ないのです。只人に恨みを買えば、仕返しをされることもありますが、もし自分が仕返しをする立場になっても思い留める力もまた、仏教なのです。念仏や坐禅もその気持ちを抑える1つの手段です。
 最近、家族が殺されて、犯人が捕まった時、必ず死刑にしろと訴える遺族がおります。気持ちは本当に分かりますが、自分が死刑のスイッチを押してもいいとなった時に本当に押せるでしょうか?
 言い放し、他人任せ、いざ自分がするとなるとひるんでしまう。ここにあなたは疑問を感じませんか?ワシはここが宗教者(僧侶)の力を試されていることだと思います。前世なんぞ見たことも無いものに惑わされているより、よっぽど考えるに値します。どうでしょうか?

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目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

善し悪しを交えずに

科学的に観ても、出来事というものは出来事です。
そこに良し悪しは初めはついていない、という視点を持ってみましょう。
誰にとって良いことなのか悪いことなのか。
ひょっとしたら、その良いこと悪いことって、安易に悪いことと、不運としておられますが、それは善悪の価値判断を加えて観た世界ではないでしょうか。
勿論当事者にとっては、不運と言わざるを得ないような出来事は多々あります。
私も❝不運❞と思いたくなるようなことは沢山経験いたしましたが、現在に至っては、当時不運に思われたことであっても、自分を成長に導いてくれた経験です。
そこに良い悪いの評価、価値判断を付け加えない様に捉えるように心掛けています。
それが精神衛生上も一番苦しみがありません。
「出来事は出来事には変わりはない。だが、それが良いことか悪いことかは必ずしも判断を下すべき事ではない」というのが私個人の考えです。
良いことか、悪いことかというのは、自分を中心としたものの見方です。
これは悪いことだ、と思うと、本当にその出来事が悪いこととして自分の中で取り扱われてしまうのです。
質問者様の答えにはなっていない部分がありますが、あなたが心底救われたいと願われるのであれば、善悪、良し悪し、幸運不運という人間的なものの見方に縛られない生き方、仏道を学ばれることを強くお勧めします。そもそも、仏教とはそういう考え方から救われていくための教えでもあるからです。
不運にも災害や、事故に見舞われました方々には、心より哀悼の祈りを捧げます。
そして、共に善悪、苦楽の迷妄の思いを断ち切って共に安楽な心に目覚めるべく精進してまいりたいと思います。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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