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辛い片思い

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有り難し有り難し 10

こんにちは、わたしは20代の女子大生です。恋愛相談をお願い致します。

わたしは昨年12月に出会った社会人の方に片思いをしています。何度も2人で出掛けにいったりしたのですが、、出会った頃は彼から誘ってくれていたのが私からが多くなり、忙しかったとラインが2日くらい返ってこないこともざらにあります。(激務らしいので、本当に忙しいのかもしれませんが、、)

就活も終わって会いたいのに、振り向いてくれないのに疲れてしまって・・恋活のアプリに登録してしまいました。まだメッセージのやり取りをしているだけですが、そこで知り合った社会人の方に惹かれている気がします、、。連絡がマメな方でラインも弾んでおり、もし会いたいと言われたら喜んでしまいそうです。

ネットからの出会いに抵抗もありますし、危険だということも分かっています。
ラインだけのやり取りにして、ずっと好きな彼に当たって砕けるべきなのか、、片思いの辛さを埋めてくれるような人に逃げていいのか( ; ; )どうしたらよいのでしょうか、、ご意見をお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どちらの相手も本人ではなく あなたの残像が強く入り込んでいる

彼に恋しているようでも、それはあなたがあなたの中の彼に対するイメージを相手にしているのです。
今、彼はそこに居ません。
居ない彼を心の中でイメージを増幅させて、ほぼリアルに観えている。
ですが、それはあなたの中の彼へのイメージ。イメ彼です。
なぜなら実際の彼は、そこではない所にいるから。
仮にあったとしても、あなたは彼といる時に、直接本人と本当にあっているかどうかの点検が必要です。
人間はその位、人間を相手にすると、その人に対する自分のイメージをその本人であるかのように錯覚をしてしまうものです。
良い意味で幻滅してください。
そうすると、本物だけをみられるようになります。
イメ彼ではない、リアルの彼を。
7回くらい読み直してみてください。
イメ彼がやっぱり自分だったという事がハッキリするでしょう。
さて、残酷なようですが、まずネットのやり取りの関係は女性を食い物にするギリ犯罪まがいの釣りが多いものです。
さっさと両方のイメ彼の幻想を見破り、まずは、どちらからも手を引くことをお勧めします。
人は詐欺師や悪党にすら自分の理想を付随させて騙されている事にすら気づかないものです。
知人女性がその手に引っかかって相手の言葉たくみにべた褒めされて身体のカンケイだけですべてを失ったからです。恐喝もされたそうです。
今、一番相手が欲しているものを言葉たくみに<釣る>のが彼らの狙いです。
一度、その両方を捨ててしまえば、リアルの世界があなたに話しかけてくれるでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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