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楽になる死に方

進化の過程で死を好むタイプの生物の種類が現れたとしても、その種はすぐに滅びるはず。

つまり、私達の祖先は「生きようとする」側のグループだったから生存しているのであり、その子孫である人類のプログラムも「生きる方が良い」となっているのでしょう。

仏教では、涅槃、平安なる滅びを求める考え方もあり、生への執着は悩み苦しみストレスの原因になると考えます。

ただし、生への執着(煩悩)を残したまま死んでも違う生きものに輪廻転生してしまうという思想があるので、悟る(煩悩をなくす)ための修行をしましょうというのが、仏教の正しい生き方なのです。

つまり、修行して真理を悟れば、二度とこの世に生まれることがなくなり、死後に涅槃(平安なる滅び。輪廻転生からの解脱。生きることからの卒業)に入ることができるのです。
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有り難し
回答僧
質問
何故死を選んではいけないのでしょうか?
タイトル通りですが、なぜ死を選んではいけないのでしょうか? 生きることが尊いこととされ、生きる権利は日本国憲法でも保障されております。 ですが、同じ生命にかかわることで死を選ぶ権利、つまり死ぬ権利はどこにも保障されていないのです。 これはとても歪なことのように感じます。 私自身、周りの人が幸せと一般的に思うようなことを幸せと感じることがほとんど無いということに、漸く気づけました。 つまり、他人と行動を共にして社会生活をするということそのものが大きなストレスでしかないのです。 それを根本に踏まえた結婚だとか出世だとか友人づきあいだとか、正直に言うと全てが無駄なことにしか思えません。 じゃあなぜ未だにそういった無駄なことを続けているかというと、この国では、というよりもいま世界的には死ぬ権利が認められていないからです。 私の望みは一切の他人との縁を断ち、孤独に死ぬことです。 自分のことで葬儀だのなんだのと煩わしいことをしてほしくもないし、記憶に残してほしくもありません。 ですが困ったことに現在の社会ではそれを実現することが非常に困難、というよりも不可能であるように思います。 人間は自己実現と自身の望みの完遂のために生きているのだと私は思います。 この考え方はきっと何があっても変わらないでしょう。 私の望みは上記のものですが、然してそれはどうやってもかないません。 どうやっても叶わない望みを持ち続けるのならば、もはやそれは耐えようのない苦痛としてのしかかり続けるだけです。 ならばさっさと命を絶ってしまった方が、幸福の総量は多いのではないでしょうか? 今でも楽しいことが皆無かと言われれば、そんなことはありません。 趣味である読書や、いくつかの行いは確かに私にとってプラスになります。 ですが、そのプラスが精々週に1~3だとすると、生きているだけで他人とかかわる以上毎日マイナス5ぐらいはされてしまっているのです。 これでは話になりません、ずっと損をしています。 長くなってしまいましたが、どうしてこのような意味のない生活を送り続けなければいけないのか、終わらせてはいけないのか。 このことについてよろしければ解答お願いいたします。
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