欲について
お坊さんは修業をする時に欲を捨てようというイメージがあります。
例えば精進料理なんかがそんな感じですね。
そこでふと思ったんですが修行の時に「欲を捨てたい」という気持ちになることもあるかと思います。
でもよくよく考えてみたら矛盾した変な言い方になりますけど「欲を捨てたい」という気持ち(言い換えるなら欲を捨てたい欲)は欲になるんでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
はい
欲も大事です
欲は無くすものではなく昇華するものであると思っています。
真言宗のお経では「大欲」という言葉が出て来ます。
それは仏様のように尊い欲の事です。
つまり、「お腹が減った何か食べたい」
という「欲」があるとします。
でもそれだけではなく、その欲を突詰めて行く事で
他の人たちの空腹の辛さも知る事が出来ます。
そこで、
「お腹の減っているが食べ物が無い方々に何とか食べ物を差し上げたい…」
そんなふうに欲は昇華していくのです。
欲がなくなると人間は滅びると思います。
生存欲すらなくなるからです。
生きる事は素晴らしい。
苦しむ事だってそれがあるから「楽」が引き立ちます。
だから「楽」を求める心は「苦しみ」にも耐えうるのだと思うのです。
ところで、修行中に私は「欲をすてたい」
なんて思う余裕は一切ありませんでしたよ。^^;
釈尊は、欲について、ウダーナヴァルガという経典に斯様に示されています。
「愚人は快楽を求めて返って傷つく。
しかしこの世で自己を求める人は傷つくことはない。
快楽をひたすらに追い求めるが故に愚者は他人をも自分をも損なう」
これは、欲・執着の「善悪」についてを述べているものと存じます。
欲や執着がいけないのは、他者の「心」を巻き込むからと言えます。
しかし例えば千日回峰行や滝行などは究極の「自己の追及」と言えますから、
一切心は傷つくことがありません。
「釈尊が言いたいのは、欲望の絶滅ではなく欲望の抑制だ」と
駒沢大学教授の奈良康明師は著書「ブッダの詩(ことば)」にてお書きに成られてます。
欲や執着の抑制、つまりコントロールすることにこそ釈尊の教えがあるのでは
ないでしょうか。
欲を捨てたい。では捨てるにはどうすればいいのか。
それを求めていけば、必ず「自分のこころ」に出会います。
こころこそが欲・執着の原点。
でもそれは捨てられるのだろうか。
そういって、ただひたすらに葛藤と疑念のなか、ただ身を阿彌陀様やお釈迦様に
あずけて一心に坐禅したり滝行したり念仏行を務めていくのだと思います。
もしかすると一番悩んでいるのは坊さんなのかもしれませんね(^-^)♪
さちあれさちあれ。合掌
エネルギーに良し悪しは無い
欲はエネルギーです。
使用法を間違えば、火も刃物も原発も邪悪な働きになるます。
悟りを得たい、自由になりたい、あなたを幸せにしたい、世のお役に立ちたい、そういう
欲だってあるデショが。
表面的な事にとらわれずに、正しく活用されればよいのです。
この地球を何とかしたい、
自分を何とかしたい、一生幸せに暮らしたい、平安に暮らしたいという欲、大志をもってください。
取り柄が無い、なんてこと言ってられませんよ。
質問者からのお礼
松林山 瑞因寺 飯田様
ご回答ありがとうございました。やはりそれも欲になってしまうのですね。欲をなくすためにも欲がいる。毒をもって毒を制すという言葉を思い出しました。
皆様ご回答ありがとうございました。
確かに欲というものは完全悪というわけではなく使い方次第で良くもなるし悪くもなるといった感じなんですね。だからこそなくすのではなくて上手く手懐けるといった感じでしょうか。完全に欲がなくなったら確かに生存欲まで消えてしまうからそれはそれで危ういですもんね。
ちょっと欲というものの見方が変わったかもしれないですね。ありがとうございました。
安穏寺 丹下様
ご回答ありがとうございました。
確かに今までは欲の負の面ばかりが目についていたのかも知れないですね。これからはいい面にも目を向けて中立的な立場で欲を上手くコントロールしていっていい欲で人生をよりよいものにしていきたいですね。