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欲について

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お坊さんは修業をする時に欲を捨てようというイメージがあります。
例えば精進料理なんかがそんな感じですね。
そこでふと思ったんですが修行の時に「欲を捨てたい」という気持ちになることもあるかと思います。

でもよくよく考えてみたら矛盾した変な言い方になりますけど「欲を捨てたい」という気持ち(言い換えるなら欲を捨てたい欲)は欲になるんでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

はい

それも欲です☻

なまんだぶなまんだぶ

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欲も大事です

欲は無くすものではなく昇華するものであると思っています。

真言宗のお経では「大欲」という言葉が出て来ます。
それは仏様のように尊い欲の事です。

つまり、「お腹が減った何か食べたい」
という「欲」があるとします。
でもそれだけではなく、その欲を突詰めて行く事で
他の人たちの空腹の辛さも知る事が出来ます。
そこで、
「お腹の減っているが食べ物が無い方々に何とか食べ物を差し上げたい…」
そんなふうに欲は昇華していくのです。

欲がなくなると人間は滅びると思います。
生存欲すらなくなるからです。

生きる事は素晴らしい。
苦しむ事だってそれがあるから「楽」が引き立ちます。
だから「楽」を求める心は「苦しみ」にも耐えうるのだと思うのです。

ところで、修行中に私は「欲をすてたい」
なんて思う余裕は一切ありませんでしたよ。^^;

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個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

エネルギーに良し悪しは無い

欲はエネルギーです。
使用法を間違えば、火も刃物も原発も邪悪な働きになるます。
悟りを得たい、自由になりたい、あなたを幸せにしたい、世のお役に立ちたい、そういう
欲だってあるデショが。
表面的な事にとらわれずに、正しく活用されればよいのです。
この地球を何とかしたい、
自分を何とかしたい、一生幸せに暮らしたい、平安に暮らしたいという欲、大志をもってください。
取り柄が無い、なんてこと言ってられませんよ。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

釈尊は、欲について、ウダーナヴァルガという経典に斯様に示されています。

「愚人は快楽を求めて返って傷つく。
しかしこの世で自己を求める人は傷つくことはない。
快楽をひたすらに追い求めるが故に愚者は他人をも自分をも損なう」

これは、欲・執着の「善悪」についてを述べているものと存じます。

欲や執着がいけないのは、他者の「心」を巻き込むからと言えます。

しかし例えば千日回峰行や滝行などは究極の「自己の追及」と言えますから、
一切心は傷つくことがありません。

「釈尊が言いたいのは、欲望の絶滅ではなく欲望の抑制だ」と
駒沢大学教授の奈良康明師は著書「ブッダの詩(ことば)」にてお書きに成られてます。

欲や執着の抑制、つまりコントロールすることにこそ釈尊の教えがあるのでは
ないでしょうか。

欲を捨てたい。では捨てるにはどうすればいいのか。
それを求めていけば、必ず「自分のこころ」に出会います。

こころこそが欲・執着の原点。
でもそれは捨てられるのだろうか。
そういって、ただひたすらに葛藤と疑念のなか、ただ身を阿彌陀様やお釈迦様に
あずけて一心に坐禅したり滝行したり念仏行を務めていくのだと思います。

もしかすると一番悩んでいるのは坊さんなのかもしれませんね(^-^)♪

さちあれさちあれ。合掌

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質問者からのお礼

松林山 瑞因寺 飯田様

ご回答ありがとうございました。やはりそれも欲になってしまうのですね。欲をなくすためにも欲がいる。毒をもって毒を制すという言葉を思い出しました。

皆様ご回答ありがとうございました。

確かに欲というものは完全悪というわけではなく使い方次第で良くもなるし悪くもなるといった感じなんですね。だからこそなくすのではなくて上手く手懐けるといった感じでしょうか。完全に欲がなくなったら確かに生存欲まで消えてしまうからそれはそれで危ういですもんね。

ちょっと欲というものの見方が変わったかもしれないですね。ありがとうございました。

安穏寺 丹下様

ご回答ありがとうございました。

確かに今までは欲の負の面ばかりが目についていたのかも知れないですね。これからはいい面にも目を向けて中立的な立場で欲を上手くコントロールしていっていい欲で人生をよりよいものにしていきたいですね。

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