おせっかいと気がきくの違いがわかりません。
あの人は気がきくとか、
親切とか
でも
あの人はおせっかいだとか
違いがわかりません。
紙一重ですよね??
はっきりしたものがあれば
教えてください
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
おせっかいながら…
相手の望むところをやってあげれば気が利く。
相手が望んでないことをすれば要らぬおせっかい。
愛情も愛のつもりでも、相手がその形の愛を望んでいなければ愛にならない。
この後この人はこれが必要であろうなぁということで、ジャストタイミングで出てくる配慮が気の利いた気遣い。
そのタイミングでそれかい、という謎の行動が要らぬおせっかい。
EX
友人とタコの唐揚げを注文した。
「あ、レモン絞ります。」ジュワー
むぅ…。彼は気を効かせたつもりなのだろうか…。
確かに最初にレモンをかけるという行為のは一見すると気が利いている配慮のように多くの人は感じるものであるが、私にとってそれは要らぬおせっかいであった。むしろ、何しやがるんでぃな行為である。私が海原雄山であれば皿を投げてしかりつけているところである。何故ならせっかくの揚げたてのカリカリ感がそのレモンを全部にかけてしまう事で損ねられてしまうからだ。史郎のたわけめがっ!
EX
私がとある厨房で丁稚奉公をしていた時の事である。
師「山芋に卵を入れて軽くかき混ぜてくれ」
私「はい」
まぜまぜ。私は生卵の黄身を山芋に載せ、しょう油を適量かけてかきまぜた。
師「バカ野郎!まぜすぎだ。」
私「え」
師「全部混ぜたらみんな同じになってしまうだろうが。そういう繊細な所が分らない様ではだめだ。」
むぅ…。確かにカレーライスを最初から全部混ぜる者はいない。(たまにいる)
わたしは気を効かせたつもりが、要らぬおせっかいであったようだ。
相手の望んでいるレベルというものは人によって異なる。
僧侶の持つ法具で如意というものがある。これは一説にはまごの手であり、痒い所、苦しい所に手が届くような老婆親切心の象徴であるという。痒い所に手が届けば気の利いた配慮、慈悲とならん。
私の回答もスベれば要らぬおせっかい。
質問者からのお礼
丹下さま
ありがとうございます。わかりやすかったです。
気がきく人には、なりたくても、なれるものではないでしょうか