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どうせ何をやってもダメだと思ってしまう

回答数回答 2
有り難し有り難し 59

自分のやることなすことが全て間違っている気がして、同じ間違いをしても他の子は許されても私は許されません。
私が人生失敗ばかりしてきて、否定されて生きてきたからだと思います。ちょっと嫌なことや辛いことがあると今までの辛かったことも全部思い出されて、なんで私の人生こんな辛いことばっかりなんだろうと悲しくなります。これから死ぬまで一生この性格からは逃れられないと思うと生きていたくないと思います。死にたいと思うのは悪い事だと分かっているのですが、頑張る気力が沸かず、このまま消えて存在をなくしたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

はじめて失敗した時

人間はじめて失敗した時は純粋に失敗します。
むしろそこに失敗という言葉すらありません。
申し遅れました。私は人生失敗連続、シッパイダーマンこと丹下と申します。
この写真のアタマもパーマをかけて失敗しました。(嘘)
机の上に飲み物の入ったコップを置いてこぼしてみましょう。
思い切ってバシャっとやってみてください。
あえて「失敗」行為をしていただくのです。その実質・本質を見極める練習だと思ってください。
その行為自体って、失敗とかネガティブなイメージはついていませんよね。
ただ、それがそうなっただけ。
それが事の本質です。
善し悪しがない。損ねも、失いもない。
そこに「私」がないからです。
そこに私を立てることで損得や善し悪しが生まれるのです。
「わたしにとって」という目線。それが失敗よりも先にインナー設定されているのです。
そもそも「失敗」という言葉は「うしなう」「やぶれる・まける」。
何を失うのでしょう。何に敗れ、敗けるのでしょう?
自分です。自分の事前ルールが損なわれて、自分のルールに敗れるのです。
100人居たら、同じ出来事でもある人には失敗であっても、ある人にとっては当たり前。
何故でしょうか。人間は観念でものを観ているからです。
般若心経にも不生不滅、不垢不浄、不増不減とありますように、実相(人間の見解を入れる以前の世界)には、失敗、失い、損ないがありません。
あなたが「私はだめだ」と自分を損ねる、DISるのは頭の中だけです。寝ている時は何も失われ感はないはずです。自分の考えで観念的に自分自身を悪くすり減らしてしまっているのです。
そういう悪い思いを沢山起こして自分を思いの上で損ねているのです。人間は考えたものになります。一念が人間を支配します。損ないの一念を起こせば本当に損なわれたように脳が感じます。
おすぎとピーコが評価する前の映画には何の評論もされていない様に(何ちゅう喩え)、全ては元々、人間の決めた良い悪いという評価などついていないままのさまがあるのです。
もう一度失敗してみてください。そこで今申し上げましたことをしかと見届けて、即、失敗の思いから抜け出せるようになって下さい。
※否定もイヤだ!も辛い!も死にたい!も全ー部頭の中の評価ごとであったと感じられましたか?
そのネガティブペダルをこぎ始める1秒前の世界を生きることが仏道です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

駄目元でやりましょう

何をやっても否定される。悲しいことですね。
それならそうと、いっそのこと否定を受け入れてやってみませんか。
世の中、何をやっても完璧な同意は無理です。全ての人が納得するということなどありません。
もしかしたら、貴方様には肯定されている面が見えなかったのかもしれませんよ。
それは、ともかく、どうせ〜という気持ちは、何かを期待してしまうので、何も期待せず、駄目元でやってみてはいかがですか。

具体的に何をお悩みになっているかが書かれてなかったので、よく分かりませんでしたが、とても辛く、死にたいというほどの思い、気力が失せるほどの思いをなされているようですね。心と体を休めて、何も期待せず、ピュアな心で物事に取り組んでみられてはいかがでしょうか。

100%の肯定が無いように、100%の否定もないですよ。どうぞ、ご自身を肯定してください。それが一番大事です。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
相互礼拝 相互供養
対応できる時間帯は19時から22時です。資格は高野山真言宗阿闍梨(教師)、普通運転免許、防災管理者、英検準1級。

質問者からのお礼

回答してくださりありがとうございます。お言葉が身にしみて感じました。すぐに実践することは無理でも、徐々に変わっていけたらいいなと思います。

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