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神経質な人が、鈍感になる方法教えてください

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現在の就労移行支援事業所の職員の一人や、うちの父にも言われたのですが、「もっと鈍感になったほうがいいよ」と同じ事を言われたのですが、

ただ、鈍感になる具体的な方法は教えてくれなかったので、

神経質な私が、鈍感になる具体的な方法をどなたか教えて頂けないでしょうか?

何卒宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

取り込まないことです。

昔はガラスのように繊細で神経質で割れやすかったものですが今や防弾ガラスの丹下です。あ、防弾ガラスでも傷つくんすよ?実際は結構繊細なんスけど、みんなそう思ってくれねーの。修行道場でもしょっちゅう先輩からターゲットにされてガッツリやられていました。「何でオレばっかり狙うんスカ」って聞いたら「お前凹まなそうじゃん」ってそんな理由だけでガッツリやられたんかい、と自分の見た目を怨みました。見た目で判断すんなって話しっスよ、あ、まーどうでもイイや。
えーと、なんでしたっけ?質問。
あー、確か、職場の人?とお母さんだかに「ビンとカンをちゃんと分別しろ」って言われたんでしたよね。(ちげーよ、父親だし、鈍感だ)
ビンと缶の分別はしなきゃダメだよ。近所のスーパーでもちゃんと分別しないと怒られますし。だからビンカンの分別はちゃんとしなきゃ。(だからビンカンじゃなく鈍感だ)
まー、あんま、人から言われたことを【取り込まない】事っすヨ。( ˘ω˘)
昔初代ファミコンでフィールドコンバットっていう超KUSOゲーがあったんですが(空相の意)https://www.youtube.com/watch?v=i9ysMCI0azc
このどっかの誰かがうPしている動画なんかまさに答えですわい。
このゲームは敵キャラを取り込むことができるのですが、取り込むことにこだわって35秒あたりでちゅどーんしていますでしょ。わはは。下手やのぅ。
要は欲張って敵を自分の中に取り込むことが多ければスキができるんス。
つまり、要は人のことなんざ取り込まんで自分を生きろちゅーこと。
こんなテキトーなたとえ話を用意しました。
昔むかしあるところに、おじいさんとおばあさんがテキトーに暮らしていました。
テキトーすぎてその子供は自分の子をキッチリ育てた結果、孫のあなたはガッチガチの性格。キチョーメーンになっていました。
あなたが川に行くと、川上からどんぶりこ、どんぶりこー、と沢山流れてくるのでした。色んなものが流れてきますが、あなたはそれを全部拾い上げようと欲張るのでした。
それを見ていた丹下とかいう坊さんが「アンタ、そんなに全部拾い上げようとしなくていーよ」とかぶつくさ言いながら流れてくるものを既読スルー。
何か拾い上げてあなたに渡したのでした。「あ、アドバイスのお勘定、この中によろしく」
渡されたものは、どんぶりでした。 完

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。

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