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何も行動できない

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有り難し有り難し 13

私は、考えすぎて、結局行動できません。

例えば、ノートを購入するなら、好きなキャラクターやメーカーなどの条件を全て検索し網羅しないともっといいノートがあるような気がして気が済まなかったり(可能な限りたくさんの選択肢を出し、1番良いものを選びたいのかもしれません。)、やることを全てリスト化してやり残したことがないようにしたり、理由にさらになぜそうなるか?という理由を求めたりします。

考えるより先に行動するとそのやり方で本当にいいのか、何か見落としていることはないか、もっといいやり方があるのでは、と考え、途中で行動するのを止めてしまいます。

考えてから行動しようとすると考えすぎで考える段階で挫折し、始めに行動しようとすると途中で考え出すのが止まらず何もできなくなり、結局何も行動できません。

こういった私の考え方は、定義付けのしすぎ、完璧主義なのか、と思います。

ですが、これを直さないとこれから先私は何もできません。

どうしたらこのループから抜け出せますか?

このままではとても生きづらいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

考えなければ良いのです

「考えなければ良いのです。」
といわれても、あなたはきっと考えてしまうでしょう。
「え、そんな簡単にいかないから困っているのに…」と思考のペダルをこぎ始める。
頭の中で、考えごとの言葉を走らせているのはどこでしょうか。誰でしょうか。何時でしょうか。
あなたが歌手なら、自分の発生する声くらいは聴けるようでないと永遠の音痴です。
自分が自分で発生している思いのしゃべり過ぎを自覚することです。
ラップみたくしゃべり続けてコキューコンナンになっていませんか。
演歌やジャズのように「間を大切に」してみてください。
休符は大切です。
沈黙は大切です。
むやみに思考のペダルをこぎ続けなくてもよいのです。
それが価値があると思うから、ペダルをこぎ続けるのでしょうが、その結果あなたは苦しい。
価値はないのです。
思考することでさえも欲張り過ぎ、という事があるのです。
「かんがえなければいいのです」と言われたら素直にそれを実践するだけで良いのです。
そこに余計な「でも」「だけど」「だって」という要らぬ一言を走らせない。
「黙」
それがあなたの修行です。
お礼はいりません。それより、沈黙を行じてください。そうすれば、行動の前後に心のおしゃべりが無くなりますので、快適になります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

安穏寺 丹下 覚元様

お礼は要りませんとありましたが、どうしてもお礼をしたく、コメントを書いています。

考え出すのを自分で止めます。
そして考えず行動してみます。

考えないことを実行する、と決めたのでお礼をさせて頂きます。

ありがとうございました。

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