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近親者の自殺を癒す方法

回答数回答 2
有り難し有り難し 23

離婚していた妹が昨年、自殺しました。うつ病だった妹ですがそのワガママとお金使いの荒さには辟易していましたが、死の間際に怒ってしまったことの後悔や、ショックが不意に一人になると押し寄せます。小学4年の甥っ子は首を吊った妹の第一発見者です。彼の事を思うととても胸が痛みますが、たまに来る新築のローンを父に押し付けて離婚した元旦那が許せません。甥っ子のために友人にも妹の事を知らせられずに辛いです。妹の死に対する悲しみと同時に無責任さにやり切れない怒りも湧きます。どうしたらこの痛みと憎しみから抜け出せるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

氷をゆっくり溶かすように

Nanashiさん
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。

妹さんが自死でお亡くなりになったのですね。
衷心よりお悔やみを申し上げます。

甥ごさん(自死された妹さんの息子さんでしょうか?)の気持ちも心配ですし、他のご家族のことも心配です。しかしNanashiさんも深く傷つき、このhasunohaにご相談を頂いたのだと思います。

妹さんが亡くなる間際に怒ってしまったこと、元夫に対する憎しみ、悲しみ、痛み…様々な思いが混ざり合い、本当につらく苦しい日々を過ごしていらっしゃることと思います。
そこから抜け出したいという思いをお持ちのようですが、良い思い出も悪い思い出も含めて、切っても切れない姉妹だったのです。Nanashiさんにとって大きな存在だったからこそ、苦しみも大きいのではないでしょうか。

質問と逆行するようで申し訳ないですが、無理に抜け出そうとなさらず、少しずつ自分の心と向き合い、氷をゆっくり溶かしていくように進めていくのがよろしいかと思います。

私は「自死・自殺に向き合う僧侶の会」に所属しております。
お力になれることもあるかと存じます。よろしければリンク先をご覧ください。

http://www.bouzsanga.org

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有り難し
おきもち

横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗の教えが好きで、それを人に伝えたいと思い、自宅で法話会を始めてご縁の輪が広がりました。
相談の日程や時間はご相談ください。

他を思うも わがこころなり

大変おつらい事であろうと思います。妹さんのご冥福をお祈りいたします。
まず、混同されてしまっておられることを個々に分断し、解決いたしましょう。
あなたの悩みはあなたが解決すべき悩み。
甥っ子さん、お父さんの心の闇は、冷たいようでも、各自がそれぞれの中で解決すべきことです。
あなたは、まず、あなたの悩みにだけ、向き合い解決されるのが良いと思います。
①妹さんに対する憐れむ気持ち、
➁妹さんの夫に対する許せない気持ち
➂甥っ子に対して不憫に思う気持ち
④妹さんにきつく当たってしまった事の後悔
これらを個別に考えてみましょう。
ですが、共通している事があります。
それは全部、あなたが「こうなのではないか」とあなたの中で問題にされてしまっているということ、です。
①妹は今も苦しんでいるのではないか、こうしてあげたかった、という自分の心をゆるめる 
②妹の夫をゆるせないにせよ 怨めばその思いで自ら苦しむゆえ 自分の心をゆるめる
③甥っ子さんにしてあげられることにも限界があるゆえ愛情は注げるだけ注ぐも過剰な世話焼きは過干渉で苦しむ故ひかえ、自分の心をゆるめる
④妹さんへの後悔の念は墓前で懺悔して自分の中の妹さんと向き合い詫びる
そうする中で、あなたは自分の向き合うべき、自らのたった一つの心を見つけられると思います。
そのお心を鎮める事が、真の鎮魂になると思います。
悲しむ心も怨む心も憐れむ心も後悔する心も、みな、すべて自らの心。
他を思う、自らの心を自らおさめる事
沢山のことがあるように思われるかもしれませんが、実は一つの心なのた、とみつめてみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
心の持って行く方向が見えました。
苦しみの原因でこれ以上に怒りや悲しみを膨れ上げさせないようにしたいです。

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