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物事の進めよう

回答数回答 2
有り難し有り難し 23

私は周りから頑固であると
思われています。

何かを始めると
とことんこだわりぬくために
それが邪魔をして
どうでもいいことに時間を
割いてしまいます。

要領が悪いというか
面倒な奴というか
世の中、私が造り上げたものでは
ないのに、疑問に感じたことは
それらを解決しないと
先に進めなくなってしまいます。

これはこうだからって
言い聞かせられて
ありのままを受け入れられれば、

こんなにも楽なんだろうなぁ
と思いつつも
これまで同じことの繰り返し。。。

まだまだ
やらなくてはいけないことが
たくさんあるのに
手をつけても
時間は刻々と過ぎていくのみ

何かの歌ではないけれど、
一日一歩、三日で三歩
三歩進んで二歩下がる
結局、三日で一歩だけ
みたいな感じです。

こんな自分から
脱却するための
ご助言がありましたら
よろしくお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

このままでいいじゃん。

 私も頑固です。真面目です。融通が利きません。24時間、365日僧侶です。僧侶にOFFなしと思っております。本日、葬儀の手伝いに行ってきましたが、住職(導師)は故人の付き合いが密だったらしく悲しみを紛らわすために雑談をしていていましたが、私は「悲しみに向き合うべきです。」と一人で坐禅を組んでおりました。悲しみの向き合い方は人それぞれなのに・・・。
 向き合い方は人それぞれ、貴方が向き合い方を変えたら、本当に上手くいくのでしょうか?どうでもいいのは誰が決めてますか?自分?同僚?上司?社長?総理?仏様?そのどうでもいいことが解決しないと自分が上手く仕事が出来ないなら、それはどうでもいいことでは無くて、仏様が与えた課題です。
 私は仕事にせよ。非番にせよ。自分は常に何が出来るかを考えております。はっきり言ってこんなことばかり考えていては早死すると勝手に自分で思っておりますが、行雲流水(自然のなりゆくまま)に生きていくだけです。

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有り難し
おきもち

目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

三歩進んで DON´T LOOK BACK。

ひたすら進んで後ずさり無し。
知人にあなたそっくりに方がおられます。
とことんこだわってプロ以上にこだわります。ってゆうか、プロ。
そういうのをプロというのでしょう。
その道を究めれば答えは出ます。
ブレーキやバックなしに本当に山にトンネルを掘って、貫通させるが如くに突き進んでください。
私も、難解回答したかわかりませんが、最近数えていません。
今いるところを「ゆく」しかないのです。
ハシゴは進むのも退くも、どのみちどっちの方向へ向かって、進んでいるのです。
頭の中の考えだけが別物にする。
あなたは停滞している訳ではなく、それも進み、それも進行なのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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