母の最後について後悔しています
肝臓癌と戦ってきた母がリンパに転移し肺の辛い症状が出てから体調が急変し、夫と病院へ駆けつけました。
私達は子供がなく共働きだった事、留守中に母に何かあっても対応出来る様、私達の自宅から1時間程の介護施設に入居していました。
とても茶目っ気がある一方で気丈な母でした。たくさんの愛情をもらいました
あと数日かもしれないと入院先で言われ、その日はずっと付き添っていました。とても苦しそうにしており、でも時々頑張って私達とも会話し、モルヒネを増やそうとしても「大丈夫」と。
その日は近くにホテルを取り、翌日の方がもっと大変になるだろうと、血圧も酸素も少し安定し眠っている母を起こさない様、私達は一旦出て着替えや食事をして戻って来よう、と面会時間終了後一緒に病院を出てしまいました。
その後1時間くらいして病院から連絡がありました「呼吸がとまったからすぐ来て下さい!」と。
全速力で駆けつけた所、とても苦しそうな顔で呼吸はしておらず、私を見ることもありませんでした。
心臓はその2.3分後に止まりました。
なんであの時どちらか残らなかったんだろう。呼吸が止まる苦しい時になんで側にいてあげられなかったんだろう、悔やまれて悔やまれてなりません。
中学生で父が事故死してからずっと二人三脚だった母。介護施設に入れず少しでも同居すればよかった。
呼吸が止まる1番つらい瞬間を見せない様にしたのでしょうか。いえ、それは私の都合の良い解釈かもしれません。
その日はちょうど伯母の初七日にあたる日でした。母の事も私の事もとても可愛がってくれた伯母。伯母の葬儀には私が出席し、体調が悪い母には伯母の死は知らせずじまいでした。
伯母の初七日まで頑張ったのか、伯母や父が迎えに来たのでしょうか。
母の呼吸が止まる時、看護師さんとしか居れなかった。母はきっと寂しい思いをしたのではないでしょうか。
毎日色々なサイトを見ては心の置き所を探していますが、悔やまれてなりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
たぶん、ちゃんとお母さんの真の姿を見ていないと思います。
「呼吸が止まる❝苦しい時❞になんで側にいてあげられなかったんだろう、悔やまれて悔やまれてなりません。」「❝寂しい思い❞をしたのではないでしょうか。」
ご質問の中のこの言葉に「そうかなぁ?」と感じましたので、申し上げます。
厳密には呼吸がただ、止まっただけであろうと思います。
苦しい、苦しい、確かに苦しかったに違いない、ですが、それ以上にあなたの中でもっともっとひどい状況を想像して、過剰に自分を責めていませんか。
今もまだお母さんが苦しんでいるかのように思い込んでおられませんか。
本当に苦しい時には相手を必要としません。
自らの生命活動は自分ではどうしようもできないこと、医者にもどうしようもできないことがあります。
生命そのものに「わたくし」がないからです。
おかあさんがもしご存命であればあなたにのぞむことはなんでしょうか。
最後の最後で看取ってもらうことだったでしょうか。
自分の亡き後もしっかり強く生きることではないでしょうか。
あなたが家族より先に病にあってどうしても死んでいかなければならない状況にある時、お子さんたちがあなたと同じ状況であるならば、どうしてほしいと思うでしょうか。
私は最後の死をみとってもらうことよりも…。
もう一度タイトルを読み直してください。
そこにあなたが自分の私見を添えて物事を観ない様になって欲しいと思います。
あなたはいつもそれが悪い癖となって苦しんできたからです。
物事をそのまま、その通りに、自分の私見や私情を差し挟まずにみてください。
あなたはそこではじめて真のお母さんに出会うことができます。
真のお母さんではないお母さんとは、あなたの中で作られた独自の物語上のお母さんです。
ご縁には意味がある。
こんにちは。親の死に目に出会えなかった後悔、大変お辛い事だと拝察しました。
私も祖父の死を受け入れられずに、お見舞いに一度行ったきり、最期を看取る事もなく別れてしまった事を随分後悔しました。たまごボーロさんは、看取るつもりで側に居られた分、後悔の念も強いのだと思います。
浄土真宗の視点でしかお伝えできませんが、阿弥陀佛という仏様は「全ての命」に役割を与えて、世に送り出すのだそうです。
その役割とは何か?それは「命」の儚さと尊さを、後に遺していかなければならない方へと伝えることです。
私たち人の命は、いつ終わるのかはっきりしていないものです。幸せの絶頂であっても不幸のドン底であっても「死」は訪れます。人はそれを虚しいと思い、死を嫌い、避けるように生きています。けれども、避けようとしても必ず死に直面しなければならないときは訪れます。その時に、大切な方のそれまでの生涯を「虚しいな」で片付けてしまうような人生観こそが、一番虚しいのです。
阿弥陀佛は、その虚しい人生観の中で生きていく(死んでいく)命を見過ごせず、死を越えた先の生涯を、極楽浄土で仏として往き生まれさせよう(往生)と願われた仏様です。
先立つ者も、後に続く者もお浄土で仏としてまた会うことができる!と仕上げて下さいます。
たまごボーロさんのお母様の命も、伯母様の命も、たまごボーロさんに命の儚さと、また、仏となって遺族に仏縁を与える事ができるというこの命の尊さを、あなたにお伝えする役割があったのでしょう。
あなたのお母様と伯母様の死がなければ、hasunohaを訪ねる事もなく、死を真剣に考えることも無かったかもしれません。ご自身の命をもって、生きるとは?死ぬとは?と教えて下さった方々へ後悔の思いばかりお伝えするのではなく、どうぞ感謝の思いをお伝えいただければと思います。きっと、お浄土でまた会えますよ。
南無阿弥陀仏
温容・謦咳に接すること叶わずとも、貴方の中に生き続けます
拝見しました。
先ずは、御母堂様の菩提を心よりお祈り申し上げます。
貴方のお母様に対するお心尽しが、私の心にも届いて参りました。苦しい時に貴方が寄り添ってくれた事に、お母様もきっと心強かったと思います。
貴方は貴方に出来得る限りの努力を、精一杯為されて来たと思います。お母様は必ずしも、それ以上を望まれてはおりません。間に合わなかった事を寂しがってはおられません。ましてそれを悔やみ続ける娘の姿など、決して望んではおられないでしょう。そして、貴方が駆けつけた姿を、お母様はご存知だろうと思います。
貴方が思う通り、お母様はこの世でかけがえのない存在で、これから先も大きな存在であり続けるのです。たとえその温容・謦咳に接する事が叶わずとも、貴方の中にお母様は生き続けます。
自分が出来なかった事を悔やむより、お母様の菩提を篤く弔って差し上げましょう。
質問者からのお礼
皆様、お返事をくださりありがとうございました。何度も読み返し全て心に響くあたたかなお言葉でした。
つい負の感情が先立ってしまっている自分、事実そのものに何か余計な思いを乗せて自分を責めている事に気づかされました。
母への感謝、お世話出来た喜び、これからの自分を安心してもらえる様、日々ご供養させ出来た頂こうと思います。