hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

一社で定着して働いて幸せな豊かな生き方をするには?

回答数回答 1
有り難し有り難し 17

わたしが仕事を転々とするのは、私の母はあなたの病気のせいだからというのですが、そうなんでしょうか?

わたしは、自分の軸や核があるようでないから、周りの人や環境のせいにして、ぶれてるのもあるのではないかと思います。

しかし、わたしより普通の人でも、普通に生活できている人とわたしとでは、何が違うんでしょうか?

やはり、ストレス耐性がわたしは低いからでしょうか?

普通に生活してる人も、核や軸なんてたいしてないと思う気がするのですが・・・。

ただ、あっちふらふら、こっちふらふらがわたしは多すぎかと自覚もあります。

わたしは、だいたい短期バイトも含めたら、26社くらいあります。

ただ、単発も含めたら、30社以上です。

ただ、どうしたら、一社に落ち着けるんでしょうか?

わたしは、何があれば、一社で定着できるんでしょうか?

周りに左右されない自分の強い心でしょうか?

でも、強い心はどうしたら、身に付きますか?

わからないです。。、、

ただ、ある人材会社の何千人と面接してきたという人材コンサルタントに、こういう風に転々とした人を見てきたが、成功例を見たことが一つもないと言われたのはショックでした。。。

わたしは、どうすれば、幸せな豊かな生き方を一社で落ち着いてできますでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一社に定着ではなく、一処に一行三昧。

人間何をやるにしても「行ない」と面においては何をしていても「おこない」なのです。
日本語では動作をあらわす動詞は「u」で終わります。あなたが仕事をしていた時の行為をいくつか挙げてみてください。
する、書く、運ぶ、乗る、聞く、話す、挨拶する、接客する、対応する、電話する、メールする、…uー。
何をするぅ―にしても、その行為は、行為としては同じです。
つまり、あなたがどこの会社にいても「やっていること」の本質は業務の多少の違いはあれ「やる」のみ。
どんな車を乗り替えてもやることは、アクセルとハンドルブレーキと、本質的には同じです。
そういう本質面で眺めてみてください。
「ああ、ここの会社はこれをやればよいのか」と、要点がつかめます。
今私はお盆帰りの渋滞で運転をかわるがわるしていますが、渋滞中の運転はただ前方後方の車とぶつからずにまっすぐ走るだけです。
これを読むのも仕事の一つだと思ってみてください。
これを私見を交えず「ただ」読んでみてください。
「ただ(只管)」とは、私見、私情、自分目線の見方を離れることです。
今、そこ、向かっていることに対して、ただなすべきことを為すのみなのです。
それが一行三昧です。
自分を立てずに行なう。
自分を優先させずに、自分を最優先させずに、自分のあらかじめの期待や求めを優先させずに。
仕事が長続きしない方の特徴の一つとして、自分が強い人というのがあります。
「自分・自我が強い」ということがどういうことかを自身で見つめてみましょう。
ものごと、事にのぞむ前に、まず自分をそこに運んでしまっていませんか。
自分の期待通りに行ってほしい、という気持ちが強いと、架空の世界、ゲームですら失敗するとイライラするのが人間です。
反対に、自分を運ばずに物事になりきっている時はゲームで失敗しても減るものがないでしょう。
ゲームでもいいですからマイルールを外してみましょう。自分のルールを運ばなければどんな状況の中でもエンジョイできるものです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ