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高校2年生の反抗期真っ盛りの息子。

回答数回答 2
有り難し有り難し 18

初めまして。

私の息子も、高校2年生、反抗期真っ盛りです。

同じような悩みを持つ、いろいろな方へのアドバイスを読み、とても参考にもなり、励みにもなりました。

「基本的には、放っておく」・・ことは心がけていますが、
今回の問題は、命にかかわることなので、どうしたものかと、
困っています。

2週間ほど前に、原付バイクで転倒して、手首にひびが入り、(ひじから手首までの)ギプスをしています。

その状態で、バイクに乗るといいはっています。
指先は動かせますが、通常の状態とは違うので、
危険性も増すことも話しましたが、通じません。

自分勝手な理屈を並べるだけです。

人を巻き込んだ事故を起こしたら、取り返しがつかないことを
話しても駄目です。

どうしたらいいのか、全くわかりません。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

目線を合わせて聞く、そして存在を認めてあげましょう

はじめまして。亀山純史と申します。お子さんが反抗期だということですが、「反抗期」とは大人が命名した子供の成長期を指す言葉で、子供からしてみれば、別に自分は今、親に反抗しているんだ、という意識はないのではないかと思います。そしてこのことは、反抗期の子供は、やみくもに親に反抗をしているのではなく、その子にはその子なりの理由があるということです。(たとえ、それが自分勝手な理屈であったとしてもです。)そして、人に対して反抗的に見える態度を取っている時、その子も悩み苦しんでいる時だと思います。ですから、子供の言い分を聞く、という姿勢が大切だと思います。
次に、頭ごしに子供の考えを否定しないということです。子供の言い分の中に、親への不満があったら、一度その不満を受け入れることが大切です。「親」という漢字は「木」に「立」って「見」ると書きますが、特に思春期の子供に対しては、その「木」から降りて、子供と同じ目線で子供の言い分を聞いてみてください。その上で、自分の気持ち、考えを言うべきでしょう。
最後に、子供のことを、何でもいいですから認めていますか。『無量寿経』には「人は独りで生まれ、独りで死んで行く」と説かれています。つまり、人は皆、寂しい存在だということです。ですから、人は自分の存在が認められる(褒められる)ことで成長します。叱るだけでは人は委縮するだけです。もしも今まであまり褒めていなかったと思ったら、是非、よい点を探して褒めてください。
以上、私からのアドバイスです。原付バイクをめぐってのご相談でしたが、問題はもっと深いところにあるのではないか、そうであれば、このことだけを取り上げても、なかなか解決しないのではないかと思い、一般論的なアドバイスになってしまいました。少しでもご参考になれば幸いです。

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有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

お友達大作戦

過干渉でもいけない 放任過ぎてもいけない 構ってあげたいけど 男の子だから トシゴロになると反発する。
大人になってきた証ですね。
「よし、まかせた」
「お前なら大丈夫だ」
「信頼してるぞ」
と、愛情の形を変えてあげる時期なのです。
心配だわ…という愛情はその年頃にとって一番うっとうしいのです。
教区タンなケースですが、ある家庭では「タバコやろうが酒を飲もうが構わないが、親の前でやれ、かくれて吸うな」とベランダで吸わせていたそうです。どんな悪いものも自分で悟らせるほかありません。それよりも隠し事が無い方が明るい家庭です。
今までは親という立場で、子供に親の高さから注いでいるような状況だったと思いますが、高い所からは降りる時期です。巣立ちという程ではありませんが、あんまりつんつんちょっかい出さないでいる方が子供もうっとうしく思わなくなるものです。
その年頃になると、母親と一緒にいる所をみられるだけでも恥ずかしい年頃でしょうから、接し方を変えてトモダチになってしまえばよいのではないでしょうか。
親という立場で多い被せるように接すると、子供もいずれ一人で生きていかなくちゃいけないので重苦しいのです。私は現在両親と友達感覚で接して頂いているので非常に楽です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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