僧侶を志すにあたって。
仏の教えにより人々を苦から救いたい、安楽へ導く、という気持ちは大前提かと思います。
その他に、「自己、己を滅する。」事も必要でしょうか?
そうしたら、ずるい人、だます人、利用されたり、はめられたりしてしまいそうな気がしますが、それでも滅していられたら、そういう嫌な気持ちさえ沸かなくなるのでしょうか?
例え自分が貶められても純粋に「お役に立てて嬉しい」と思えるようになるのでしょうか?
愚問で申し訳ありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そもそも自己って何?
いわゆる滅私奉公は世俗の価値観です。仏教は諸法無我ですから、滅するような自己は最初から有るとも言えるし無いとも言えるのです。色即是空・空即是色です。自己も無くて他者も無いから、自己も他者もみんな大きな自己なんです。つまり人々に抜苦与楽しようというのは、結局のところ自己を大切にしているわけです。ゆえに滅私奉公は偽善です。
滅私奉公して騙されたら…それは自分が罪を作っています。相手が悪行をする原因を自分が作ったと言えます。輪廻を回しています。しかし、時には相手に悪の自覚を持たせたり、相手自身を受け止めるために必要なこともあります。
自分の布施として行うなら、結果に目を付けることは苦の原因にしかなりませんので気にしません。
そんな感じでケースバイケースです。それはパターン化すべきことではありません。修行した一人の僧侶が自分自身の五感で状況を観て、その時に然るべき判断をすれば良いことです。対機説法ですので。
また、そもそも論で一切皆苦です。何事もあっちを取ればこっちが付かず、こっちを取ればあっちが付かずで思い通りにいかないものです。仏を信じれば万事オッケーみたいなご都合主義にはなりません。そういう所をひっくるめて今を全心全霊で生きようとするのが仏道です。逆に思い通りにいかないからこそ、永遠不滅の苦も無いのです。必ず救われる光明があります。ご都合主義ではないから救われる、諸行無常だから救わるわけです。
一般向けの回答では突き放す時以外「自分で勉強してください」という回答はしないようにしていますが、僧侶志望ということですのでちょっぴりモヤっと書きました。分かる機縁が満ちればよく分かるはずです。
「宗教的経験の諸相」(ウイリアム・ジェームス著)という本には、「何度だまされても、人を信じ続ける」宗教者たちの話が出てきます。
もっともこの「信じる」というのは、キリスト教的に言えば、”人が神に向かう道を歩もうとする心を信じる(仏教的には仏性ですが)”ということであって、「ずるい話を信じる」や、「はめられたりする」のとは違います。
ずるい人に利用されたり、はめられたりするのは、相手のカルマを増やすのを手伝う、ということです。人の役に立つ、ことでもなんでもありません。だから”役に立って嬉しい”とはなりません。
利他は、人のカルマを増やすためのものではなく、人が彼岸に進めるようにお手伝いをすることですから。
あなたは、もしかしたら滅私(あなたは「無我」という意味で使っていらっしゃると思いますが)を、自己否定することと勘違いされているのかな? と僕は思いました。
滅私(無我)というのは、自他相対の根底にある、如来の智慧に目覚めることです。
ここから生まれる智慧を持たずして、あなたが志していらっしゃる、”他を安楽の世界に導く”ことは難しいのです。
まあそれはともかく、お互い頑張りましょう。
質問者からのお礼
大慈様
お忙しい中、ご回答下さり有り難うございました。
そもそも自己と他人を別けて考えないのが仏の教えなのですね。自他不二という事でしょうか。
大慈様のご回答を拝見させて頂き、疑問がストンと落ちるように納得致しました。
益々、僧侶を志したいと思いました。
有り難うございます。
和田寺タオサンガ道場/遠藤喨及様
お忙しい中、ご回答頂きまして有り難うございます。
おっしゃるとおり、自己を滅するという事を自己否定のように捉えておりました。それでは何人も救われません。
「如来の智慧」を持てるよう精進して参ります。
有り難うございました。