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同性愛について

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有り難し有り難し 22

私は小学生のころにある同級生の男の子を好きになりました。それからずっと男性を性的に好きでいました。
専門学校に通いはじめてからある女性を好きになりました。しかし、私はその女性のことを好きになったのは性的に好きな訳ではなく、優しさや雰囲気に引かれて好きになりました。
私はもともと控えめな性格で友達もいなかったので男らしい人に憧れや守って欲しいと思うようになったのかもしれません。
保育園に通っていたときは女性が好きでした。今でも女性に持てたいとも思います。
ここで本題ですが私は女性を心のそ底から愛せているのでしょうか?考えるたび自分の気持ちがわからなくなります。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

条件付けの要らない、私の愛ではない「愛」を提供してください。

「花の色香りを損なわず、ただ蜜のみを採集するがごとくに。」(仏遺教経)
仏道を学ぶ人は、その素晴らしい力を持っている方の、その力のみに用があるのであって、その人の行いやら容顔、見た目や、行いがおそまつだ、とか考えてはイカンという教えがあります。
道元禅師は、無上菩提(悟り)を演説する師にであったならば、姿形で判断して好き嫌いを言ったり、相手の非を嫌ったり、相手の行いのあれこれを考えることをやめよと説かれています。

あなたは男であれ女であれお釜であれお鍋であれ誰とでもよい関わりを持つことができます。
別に愛という蜜を互いに提供し合うのであれば性的な関わりはいらないでしょう。
「愛せるか」ではなく、純粋に愛を提供すればいいのです。
本心、本能的に好きでなくても見合い結婚のお坊さん達は、悪魔に魂を売っている訳ではありません。
仏教の教えに従って、誰であってもこちらが無私無我になって、結婚相手に尽くすのです。
それによって、無私無我の愛が自分も相手も忘れさせてお互い愛に包まれるという事があるのです。
知人の女性が叶姉妹とライン友達だそうです。
もちろんアプリですが。
何かメッセージを送るとものすごい濃厚なハニーたっぷりな愛情が帰ってくるのだそうです。(叶姉妹から)それで、なんだか濃厚な愛に包まれた幸せな気分になれるのだそうです。
反対に世間のおじさまたちも女子高生とライン友達ができるというアプリでウハウハになっている方もおられます。架空の存在ですが。
人はこの様に関わり合い、関わり❝愛❞を求めます。
世俗では愛こそが真理です。、マトリックスやスーパーマンならば愛の力で死んじゃった人もよみがえらせるくらいの力があるのですから、愛の力は素晴らしいものです。
よって、あなたは男性であれ女性であれあなた自身が愛を蜜として提供できるようになってください。相手がその愛という名の蜜で元気になれば、あなた自身が愛の伝道者となれるのです。愛を提供する人は、相手ばかりではなく本人が一番その愛によって身を包まれて、幸せになれます。
そうしていく中で、愛のレベルや愛の質などを自分に問いかけてみてください。
相手によって、愛の在り方が自然に変わっていくはずです。
それが対機説法と同じく、相手に応じて、相手に合わせて提供すべき減ることのない愛です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

愛より慈悲を

愛は執着や渇愛となり苦しみの原因になります。
仏教では愛よりも慈悲を持ちなさいといわれます。
慈悲とは相手の幸せを願い、相手の苦しみを共に悲しみ、相手の苦しみを取り除くことです。
お互いに慈悲の心で接することができたらいいですね。
なお、仏教的には性別は関係無いのですよ。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

質問者からのお礼

心が楽になりました。ありがとうございました。

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