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前に付き合っていた彼が忘れられません。前に進むべきか。

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

こんにちは、よろしくお願いいたします。

私には、付き合っては別れよりを戻し、また別れてはよりを戻し、を5回ほど繰り返した男性がいました。最後には、彼から「今回別れたら次はもうないから」と言われ、それからは新しい恋を求め恋愛成就のパワースポットで参拝したり、おまじないやジンクスを試してみたりしました。周りの知り合いにも紹介を頼んだりもしましたが、なかなか良い結果はありません。

そんなとき別れた彼と連絡を取り合う機会がありました。
私は会いに行き一晩を共にしました。
その次の週にも会える機会があり、色々質問をしてみました。
まだ私のことは好きか。やり直す気はないのだろうか。

彼の答えは、
「俺は忙しい人間だからまりちゃんは耐えられないと思うし、そんなまりちゃんを支えてく自信がない」
でした。

そこで私が「私がものすごく我慢すれば付き合える?」と聞いたところ、それならいいのでは?との答えでした。

彼は普段は優しいですが少しイライラすると言葉の暴力、それに時間が不規則なアルバイトの勤務で私と生活リズムが合わず、そのたびケンカになり別れる、という繰返しです。

私は彼のことが好きです。
でもまたよりを戻したところで同じことの繰り返しになることも分かっています。

私は彼を忘れ前に進むべきでしょうか、それとも、私がひとつ大人になって彼と一緒にいられる努力をするべきでしょうか。
ご返答のほど、よろしくお願いいたします。
長文失礼いたしました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人として尊ばれているか吟味する

まりちゃんさん

好きな彼と付き合えるならば
何も問題ないはずなのに
あなたはここに悩みを相談している

もう気付いているのではないですか

彼は自分を好きではない
性的に搾取出来るのであれば

それならいいのでは?なのでしょう

“私は彼を忘れ前に進むべきでしょうか、それとも、私がひとつ大人になって彼と一緒にいられる努力をするべきでしょうか。”

すべきことがあるとすれば
自分が人として尊ばれているか
彼の言動、誠実性を吟味することです。

もしあなたのことが好きであれば
ちゃんとお付き合いすることになるでしょう

もしあなたのことが好きでなければ
ちゃんと断るのではないでしょうか

「私がものすごく我慢すれば付き合える?」と
おっしゃったとのことですが

我慢をしても愛されず
愛されるために我慢し続けることになると思います。

老婆心ながら

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有り難し
おきもち

好きの最終形 

今の「スキ」という気持ちの次の段階を想定してみましょう。
最終的には、自分を生きるという事に尽きます。
この自分の与えられた心身を生きる。
誰を好きになって、誰と結婚して、子供が生まれるにせよ、相手は相手、子供は子供、我が身は我が身。
本当によりどころとすべきトコロは、実は自分自身なのです。
万が一彼が亡くなったとしても、それでもその後生きるべきは自分自身なのです。
自分勝手に生きなさいという事ではありません。
相手を思い遣る気持ちもとても大切なことです。
好きの最終形は相手の幸せを考える、です。
そして、その相手の幸せの最終形は、私でなくても幸せに歩んでもらう事なのです。←ここはピンと来ないかもしれませんが、万が一、自分が死んだら、という事も考えてみましょう。
だからこそ、最高のパートナーとお互いがなるべく、仏教を学ぶ=自我、エゴを離れる人生を歩むべきです。真実の愛はそこから生まれます。
それが無いとどうしても、ただ、スキ、好き。何となく、好きという、わがままの愛になってしまうからです。そういう愛ですと、いつか必ず壊れるのです。誰を好きになってもいいです。まず、相手を愛する自分の、思いの質を本気で問いかけてみてください。
「アタシの言う 好き って 何を意味しているのだろうか」
そうすることで 様々な呪縛から解放されます。
別角度から申し上げました。あなたの自由と、寛容寛大な心に目覚める為です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

有難いお言葉をありがとうございました。

自分の「好き」という気持ちの本質と、相手をよく見極め、焦らずマイペースに考えてみようと思います。

これからも幾度となくこちらのサイトに質問させていただくかと思いますが、温かく時には厳しく、諭してください。
失礼します。

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