hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

ネガティブな態度に苛々してしまう

回答数回答 1
有り難し有り難し 5

10年近く友人付き合いのある人から告白されました。
一度はお断りしたのですが、もう一度二人でちゃんと話をしてみることになりました。

その人はとても優しい人なのですが
自分に自信がないところやウジウジ弱音をはくところが、
私とよく似ていて苛々するようになりました。

彼は真面目な気持ちで告白してくれたとは思うのですが、
上辺だけのお互い傷つけ合わない関係からの恋愛ごっこに感じてしまいます。

ちゃんと話をするにあたっては、素直な気持ちで話をして
互いに成長する糧になれば、と思うのですが。
どう話せばいいのか迷っています。

相手に変わってほしいと望むことや、
緊張からの不自然なふるまいに苛々してしまうこともやめたいです……

互いに人を好きになるということ、
付き合うことへの免疫がなく、お付き合いしてみても
うまくいく気がしません。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

イイ事12個どころかイイ事∞無限にする秘法

それがあなたのネガティブ思考の一つの表れでしょうね。
相手にイライラするのもネガティブ反応の一つですけん。
まず相手のネガティブは相手の問題ですからあなたがそこでネガティブ反応起こす必要はありまへん。
ネガティブとポジティブは表裏一体です。
貧乏神と幸福の神の違いで同じ神様なのです。
ネガポ辞典という本を本屋さんで2冊彼の分も買ってみましょう。
あなたの否定的スタンスがすべて肯定的な態度に変わります。
ネガティブな思いや言動があった時、即座に変換すればよいだけのことです。
悪くとらえればケチはいくらでもつけられます。
さてさて「ダース」というチョコのキャッチフレーズに「イイ事12コ」というのがありました。
甘い、幸せ、良い香り、栄養素、ギャバでストレス軽減…などといいこととしてみれば幸せになれます。
では反対に「悪いこと12コ」としてみましょう。
虫歯になる、太る、ハイカロリー、脂肪分、ニキビ、外国産カカオ、保存料…
悪いこと尽くしにもなります。
ですがそれでも「食べなければお金も減らない」と考えることだってできます。
ここで、チョコの良い面悪い面を揚げる以前のそのままをみてみましょう。
仏教でいう所の「空」とは、そのように価値の両面の本質を知り、観自在、自在にみる事だって出来るものです。
さらにいえば「ネガティブ・ポジティブ」以前の姿をみる事が大切なのです。
1あなたの彼はあなたでなくても幸せになれます。
2あなたでないと幸せにはなれません。
3彼でないとあなたはシアワセにはなれません。
4彼でなくとも幸せになれます。
5彼と二人で幸せになれます。
ナンとでも思えるものです。
そう思い込む以前のそのままを味わってみてください。
イイ事12個どころか、イイ事∞無限です。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
悪い所として捉えるのではなく、良い所としてみる、本質を見つめるということでしょうか。
何をどう話すか、よりどう考えるか、が必要なのだとは思うのですが。難しいです。

煩悩スッキリコラムまとめ