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マイナス思考の友人

回答数回答 1
有り難し有り難し 7

こんばんは。
また、相談させてください。
私の友人が、マイナスな感情しか言いません。
しんどい、辛いなどです。
またもう一人の友達は、ふとした時に私のことをすごい目で睨みつけていて、私と目が合うとはっとしたようになり、笑顔になります。
私自身がマイナス感情になる時があり、類は友を呼ぶで、マイナスの人達とかかわるのでしょうか。プラスの感情を持っている人達に巡りあえるには、どうすればよいでしょうか。
よろしくお願いいたします。

2024年9月20日 21:03

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたがその友人の言葉をマイナスと思わないようにする

禅仏教とは物事の本質を追求する宗教です。
人の言葉には本質的には陰陽・プラスマイナス・正誤・是非善悪はないという視点を持つ。
なぜでしょうか。
では以下の言葉を読んでみましょう。
・しんどい
・だりぃ
・つかれた
・やってらんねぇ
・元気ない
本当は(ここ)そこには、ネガティブとか否定的なラベルなんてないのではないでしょうか?
ただ、そういうことばで何やら言いたいことを代弁、いわんとしてるだけ。
これらの言葉はある種本人の主観であり、本音であり、人からジャッジされなくても良い本人だけのツイートなのです。
言葉の響きや投げかけ方、ぶつけ方が投げやりで、乱雑であったとしても本質を見る。あなたがその相手のネガティブ怨念めいた心理にあなたの健全さが脅かされなければ、その人がただブツブツ独り言を言っているだけ。あなたに言っているのではなく、本人のつぶやき。
言葉は乱暴ですが、他人の怨念・恨み事、ぶーたくれなどコチトラ知ったこっちゃァないのですから、放っておく&シラヌガホトケぐらいな「そーしゃるでぃすたんす」をキープしましょう。首を突っ込むから怨念に呪縛され、新型かまってちゃんウィルスに感染されるわけでしょう。それはあなたがあなたの主観や干渉、ツッコミ濃度が濃いだけです。法衣を纏うがごとくに心理バリアをはればよいでしょう。
本人が本人の都合で勝手に病んでいるわけですから。
かといって、そこで、知らん、知るかタワケ、とは言えないでしょうからこそ、本質を見抜くのです。
どのみちそんな救われないことばを言ったところで誰も救われないのですから、
どうせぼやく、愚痴る、悩むにしても建設的にぼやく、愚痴る、悩めばいいのです。
そうすれば、言葉の意味もあなたの中で変わった形で受け止められるでしょう。
ああ、この子は…
・疲れてるだけね
・聞いてほしいのね
・それを言って発散してるだけね
・その気持ちもわかるわよ
・SOS信号ね
どんなネガティブに思える言葉でも、ただ本人の主張にすぎなくなるのです。
この世の中のどんな不平不満も怒りも怨念の言葉も言葉を変えてみれば、それは単なる本人の「こうしたい」「こうしてほしい」「こうあってほしい」という心の声なわけです。そこんところを読み取って、ナイスキャッチ、ナイススルー、ナイス導きをすればよいのです。より良い生き方の方向に進む意志さえあれば大丈夫です。

2024年9月20日 22:44
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しいなかありがとうございました。
自分自身が振り回されないよう軸をしっかり
もちます

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